先日の午後、およそ1か月ぶりに試聴にお見えになられたオーディオ仲間のAさんが持参されたのは、愛聴盤の1900年代前半の名テノール歌手たち4名を収録したCD。
たしか、以前のブログでも紹介したことがあるがとにかく顔ぶれが凄い。「マルティネッリ」「ペルティーレ」「ジーリ」「ヴォルピ」を納めたもので、まるで「夢の饗宴」。
とはいっても、およそ80年ほど前に活躍した歌手たちだからご存知ない方が大半だろう。
当時の荒廃した世相のもと、娯楽の少なかった時代に置かれた音楽芸術の存在価値と熱心な聴衆に支えられて切磋琢磨する芸術家たちのレベルの高さを彷彿とさせるアルバムである。声量の豊かさとか気合の入れ方などにおいて、とても現代のテノール歌手たちが及ぶところではない。
まずJBLシステムで聴いたところ、改めてペルティーレというテノール歌手の張りと艶のある声にぶったまげてしまった。何せSP時代の録音だから音質は良くないのだが、そんな瑕疵なんか「いっさい問題じゃないよ」と吹っ飛ばすほどの歌いっぷり。
専門家筋では「ジーリ」の評価が高いようだが、この盤をきく限り「歴代最高の称号を贈っていいほどのテノール歌手ですね。あの伝説のデル・モナコより上ではないでしょうか。」と二人で頷き合ったことだった。
このCDはAさんがカナダへ旅行されたときに当地のCDショップで手に入れられたそうで、日本では未発売かもしれない。
一般にはまず馴染みのないペルティーレだが、いったい世の中にどれだけ浸透しているんだろうかと「テノール歌手ペルティーレ」でググってみたところ、さすがに世間は広い。
隠れた音楽通はいらっしゃるもので次のようなブログがあった。無断だが勝手に引用させてもらおう。
「アウレリアーノ・ペルティーレ (Preiser 89072) 1927~1930年の録音集。
納得のいく上手さ。張りがあるけど柔らかい声。鳴りも申し分なく上に乗っている。熱を感じさせる歌いっぷりだが過度には崩さず、一つ一つの音の扱いが丁寧。フレージングがとてもイタリア的だが嫌味ない。
柔軟性や鳴りや息の使い方等どこかが突出しているということがなく、どの面から見ても落ちのない一流であり適度なイタリア的歌心をも備えている。理想的とまでは言わないが聴いていて非常に納得いく歌手。
“アンドレア・シェニエ”の“Un di all'azzurro spazio”目当てで買ったんだが、期待に違わぬ演奏だった。もうちょっとあそこがこうなら、とか思うところは残っているのだが、イタリアのオペラアリアとしての歌と自分の感性、趣味の違いだろう。趣味が違うのに聴いて得心のいく演奏だったのだから凄いものだ。」
とにかく、演奏家にメチャ厳しかった指揮者トスカニーニが(ペルティーレを)重用したというから実力は折り紙つきである。
ところで、この時に使ったCDトランスポートは「ラ・スカラ」(dCS)だった。耳ざといAさんがすぐに気付かれて「アレッ、この前とは随分音が変わりましたね。」
「そうなんです。以前はバランス・デジタルコードでDAコンバータ-と接続していたのですが、BNCコードに替えてみたところ、こういう音になりました。」
感心されたように「ラ・スカラ」に歩み寄って後ろ側の接続部分を実際に確認された。
「PADのコードを使ってありますね。中音域のヌケがとてもいい感じです。今となるとワディア270は普通のCDシステムの延長線上にある音でしたが、ラ・スカラとなるとまるでレベルが違いますね。こうなると我が家もCDシステムを見直したくなりました。」
明らかにご謙遜である。ご自宅のあの雄大なスケール感豊かな音を聴かせていただくと、やれSACDとかハイレゾとかいうのが次元が低過ぎてバカバカしくなってしまうから不思議(笑)。
その一方、我が家のような“並み”の標準的なシステムでは最も劣化した機器のところで音が平準化する傾向にあるので何よりも凹部分を作らないのが肝心。要はバランスというわけで、どこか一か所でも手を抜いたら即アウト(笑)。
ところで、ここで関連して「オーディオ機器の評価」について一言述べておこう。
オーディオ誌やネットなどでいろんなオーディオ機器の評価がなされているが、その背後には常に省略されている言葉があると思っている。それは「お値段の割には」というエクスキューズ。
どんなに「性能がいい」と高い評価を受けている機器であっても、そこには「お値段の割には」という言葉が隠されていると思った方が無難。実際にこういう言葉を使うと夢も希望もなくなるので省略されているだけの話だから(笑)。
値段がピンからキリまでバラツキがあるオーディオ機器だが、使用する側としてはこの辺をしっかりわきまえておかないととんでもない勘違いの元になる。
我がオーディオ人生をふり返ってみても、このエクスキューズに気が付かなかったばかりにオーディオ誌の「絶賛!」につい釣られてしまい、散々な無駄遣い(授業料かも?)のオンパレードになってしまった。もちろん、全体のバランスを無視したむやみな一点だけの突出も意味がない。
賢明な読者の方々はまずそんなことはないと思うが、どうか素朴で信じ込みやすかった自分の轍を踏まれませんように老婆心ながら申し添えてみました(笑)。