「罪深い遊び」というタイトルに思わずドキッとされた方もいるかもしれない(笑)。残念なことに音楽がらみの話です。したがって期待ハズレかもしれませんがどうか悪しからず~。
さて、音楽にしろオーディオにしろ「聴き比べ」は実に楽しい。
音楽の場合、出所は同じ楽譜なのに演奏によってこんなに印象が変わるのかという驚きは新鮮そのもので、次から次に買い求めて違う演奏を楽しみたくなる。
オーディオだって使う真空管(初段管、出力管、整流管)によって、音がクルクル変わる「球転がし」ひいては「アンプ転がし」果てには「スピーカー転がし」などの「音遊び」はまさに究極の愉しみとして絶対に欠かせない存在だ!
ところが、その「聴き比べ」を「罪深い遊び」だと断罪している本を見かけた。興味を引かれたので以下、解説してみよう。
「許 光俊」氏の音楽評論は歯切れがいいのでいつも愛読している。まさに一刀両断、音楽評論家によくありがちな“業界”におもねった雰囲気がみじんも感じられないのでとても清々しい。
初見の方がいるかもしれないので「許 光俊」氏の情報についてざっとお知らせしておくと(ネット)、
「許 光俊(きょ みつとし:1965~ )は、東京都生まれのクラシック音楽評論家、文芸評論家。ドイツ文学、音楽史専攻。近代の文芸を含む諸芸術と芸術批評を専門としている。慶応義塾大学法学部教授。」
氏の最新作「クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学」(2014.2.10刊)がその本。
本書の冒頭(プロローグ)にこうある。
「聴き比べは、罪深い遊びである。さまざまな演奏家が研鑽と努力の末に成し遂げた仕事(そうであることを祈りたいが)を、これは駄目、あれは良いと断罪する。それはクラシックの愛好家に可能なもっとも意地悪で、もっとも贅沢な遊びである。どうして多くの人々は知らない曲を知る代わりに同じ曲を何度となく聴き直して喜ぶのか。
ベートーヴェンの“第九”を100回聴く代わりに、せめて未知の作品を20曲聴いたら、新たなお気に入りが見つかるかもしれないのに。~中略~。
聴き比べは、陶酔ではなく覚醒へ向かおうとする。信じることではなく、疑うことを本分とする。満足を得ようとして不満を得る。」
さらに「演奏の歴史とはまったく驚くべきことに、演奏家がいかに楽譜を無視し、自分の感覚や想像力に従ってきたかという歴史である。」とあり、そういう醒めた視点から4つの曲目について延々と「聴き比べ」が展開される。
自分は非常に信じ込みやすいタチなので「成る程、成る程」と素直に頷きながら、つい“お終い”まで読み耽ってしまった。
とにかく、その「聴き比べ」というのが中途半端ではないのである。
1 ヴィヴァルディ「四季」(春)~演奏家のエゴの痕跡~
「精神が欠落した音楽の空白を埋めるかのように、様々な演奏者の録音が山積し(演奏の)実験場と化している。」と、著者は相変わらず手厳しい。「虎の威を借りる狐」ではないが(笑)、自分も先般60枚にも及ぶ曲目を聴いての印象として「バロック音楽は聞き流しが適当な音楽」のような気がしてならない。もちろん、いいとか悪いとかの話ではなく、こういう音楽が好きな人がいても少しも構わないので念のため。
「イ・ムジチ合奏団+フェリックス・アーヨ」を皮切りに、何と24もの演奏の「聴き比べ」が紹介される。とても半端な数字ではない。それぞれの演奏に対して的確なポイントをついた辛口の指摘がなされていて、著者の音楽への造詣の深さと分析力には脱帽する。
こういった調子で、2 スメタナ「わが祖国」(モルダウ)~内容を再現したがらない指揮者たちの反抗~については、極めて民族的な(チェコ)音楽にもかかわらず、「アメリカのオーケストラ」の心なき演奏への嘆きなどを交えながら、23もの演奏の聴き比べ。
圧巻の3 ベルリオーズ「幻想交響曲」~自我の中で展開する私小説~に至っては、37もの演奏の「聴き比べ」。
作曲家自身のベルリオーズが残した楽章(5楽章)ごとの解説があまりにも“微に入り細にわたっている”ため、演奏家にとってはそれが“がんじがらめ”となっていっさいの想像力が許されず、両者の間に創造的な緊張関係が起きることはないとあり、「今さらながら、かくも多くの下らない演奏が氾濫している事実に呆れるしかない。」(216頁)。
というわけで、「言葉では表現できないことを生々しく伝えることが出来る芸術=音楽」の役割について改めて一考させられた。
4 ムソルグスキー「展覧会の絵」~時間的経験と肉体的経験~は省略。
本書の読後感だが、「聴き比べ」とはたとえばA、B、Cと違う演奏がある場合にA、B、Cの差異を問題にするのではなく、「Aと作品」、「Bと作品」といった具合に常に演奏と作品の関係を追及しながら、基準となるものをしっかり据えて対比しつつ、「あえて演奏同士の間には上下関係をつけようとしていない。」ことに感心した。
本来、「聴き比べ」とはそうあるべきものなのかもしれない。
翻ってこれをオーディオに当てはめてみるとどうだろう。
いろんな真空管を差し換えて音質テストをするにしても、音楽における作品のような確たる羅針盤があるわけでもないのでハタと困ってしまう。もしかすると、このことがオーディオ界において単なる「主観に基づいたもの」が「評判」となり、大手をふるって独り歩きする所以なのかもしれない。
音質を左右する要因はいろいろあって、「音響空間を支配する部屋の広さ」、「音源」、「アンプ」、「スピーカー」などの条件次第で真空管だって生き返ったり死んだりするから、「これはイイ」とか「あれはダメ」とか、早計な判断はムチャということが分かる。
これからは「聴き比べ」を「罪深い遊び」にしないように“心がけ”なければ(笑)。