昨日(23日)、およそ2か月ぶりに我が家に試聴にお見えになった大分市にお住いのMさん。部屋に入られるなり「最近、ブログ・ランキングを一つに絞られたみたいですね。」
思わず苦笑しながら、それが、まあ、“かくかく、しかじか”と、かいつまんで話したところ「それ(脱退)は正解でしたね。関わり合いにならないのが一番ですよ。」
「ええ、結果オーライで喜んでます」(笑)から始まって、「オーディオ・マニアもいろいろですねえ」と、必ずしも高尚な趣味を楽しんだり権威のある職業に携わっている人たちが、すべて高潔な人間ばかりかというと“そうでもない”という結論に落ち着いた。
たとえば、オーディオ・マニアと違ってより「資質の純度」(?)が高そうな音楽家だって、古今東西、作曲家や指揮者などのおかしな話をよくきくし、かなりのバラツキがあるのは否めない。
ここでふと思い出したのが、1935年に往年の名指揮者ブルーノ・ワルターが行った「音楽の道徳的なちから」についての講演。
これは、往年の名ピアニストであるエドウィン・フィッシャーの著作「音楽観相」(1999.5.31、みすず書房刊)の巻末に収録されていて、たしか、随分以前のブログにも投稿したが、どなたも既にはるか忘却の彼方にあるだろうから再度投稿させてもらおう(笑)。
「音楽に道徳もへちまもあるか」という方が大半だろうがまあ、聞いてほしい(笑)。
というのも、かたくるしいタイトルに似合わず、内容の方は意外にも音楽に対するワルターの気取らない率直な思いが綴られたもので、およそ80年前の講演だが現代においても十分通用する内容ではないかと思う。
以下、自分なりに噛み砕いて要約してみた。
はじめに「果たして人間は音楽の影響によってより善い存在になれるものだろうか?もしそうであれば毎日絶え間ない音楽の影響のもとに生きている音楽家はすべてが人類の道徳的模範になっているはずだが」とズバリ問題提起されているところが面白い。
ワルターの分析はこうだ。
1 恥ずかしいことながら音楽家は概して他の職業に従事している人々に比べ、べつに少しも善くも悪くもない。
2 音楽に内在する倫理的呼びかけ(心の高揚、感動、恍惚)はほんのつかの間の瞬間的な効果を狙っているにすぎない、それは電流の通じている間は大きな力を持っているが、スイッチを切ってしまえば死んだ一片の鉄にすぎない「電磁石」のようなものだ。
3 人間の性質にとって音楽が特別に役立つとも思えず、過大な期待を寄せるべきではない。なぜなら、人間の道徳的性質は非常にこみいっており、我々すべてのものの内部には善と悪とが分離しがたく混合して存在しているから。
以上、随分と率直な語りっぷりで「音楽を愛する人間はすべて善人である」などと「我田引水」していないところが大いに気に入った。いかにもワルターらしい教養の深さを感じさせるもので「音楽の何たるか」を熟知している音楽家だからこその説得力ある言葉。
実は自分も、すべて人間はいろんな局面によって変幻自在の顔を見せるものであり、一時(一事)的な事柄をもって善人とか悪人とか決めつけるのは“危なっかしい”判断だといつも思っている。
あの音楽の美に溢れた素晴らしい作品を生み出したり、演奏したりする音楽家が「どうしてこんな恥ずべきことを」なんていうのは過去において枚挙にいとまがないくらいで、一時的な血迷い事はザラである。
肝心の音楽家でさえこうなのだから、ましてや音楽を聴くだけの愛好家に至っては推して知るべし。したがって、ワルターが言うところの「音楽=電磁石」説にはまったく共感を覚える。
と、ここで終わってしまうとまったく“味も素っ気も無い”話になってしまうが、これからの展開がワルターさんの偉いところであり感じ入るところである。
「それでも音楽はたぶん我々をいくらかでもより善くしてくれるものだと考えるべきだ」とのご高説。音楽が人間の倫理に訴える”ちから”、つまり「音楽を聴くことで少しでも正しく生きようという気持ちにさせる」効果を信じるべきだと述べているのだ。
ワルターは「自分の希望的見解」とわざわざ断ったうえで音楽の持つ倫理的な力を次のように分析している。
☆ 音楽そのものが持つ音信(おとずれ)
「音楽とは何であるか」という問いに答えることは不可能だが、音楽は常に「不協和音」から「協和音」へと流れている。つまり目指すところは融和、満足、安らかなハーモニーへと志向しており、聴く者が音楽によって味わう幸福感情の主たる原因はここにある。音楽の根本法則は「融和」にあり、これこそ人間に高度な倫理的音信(おとずれ)をもたらすものである。
自己勝手流だが、およそ以上のような内容だった。興味のある方はぜひ原典を一読されることをお薦めする。
このワルター説では「音楽の持つ道徳的な力」の根源は「協和音、ハーモニー、融和」にあり、結局、音楽の役割とはそれらを通じて人々が幸福感を得ることにより無用の対立を防いで社会を住みやすくすることにあるというのが趣旨のようである。
その意味ではこの世で音楽ファンが一人でも増えることは潤いのある社会に向けて何がしかの一歩前進ということになろう。
したがって音楽の素晴らしさを説いたり、それを聴く道具としてのオーディオの喧伝をしたりすることも、たとえわずかでも社会貢献としてそれなりに意義のあることかもしれない。
な~んて、これはちょっと手前味噌かな(笑)。