「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

作曲家を演じようとした孤高のピアニスト

2017年09月30日 | 音楽談義

明日からいよいよ10月、このところ秋の気配が濃厚に漂いだして一段と音楽に親しみやすい季節になってきた。

オーディオ仲間たちのおかげでシステムの方もどうにか満足できる状態となって一段落し、音楽に専念できる態勢が整ってきたのはほんとうにありがたい。

我が家の場合、音楽といえばモーツァルトがおよそ7割を占めており残りの3割近くが他の作曲家たちやその他のジャンルとなる。

さて、コラムニストの石堂淑朗氏に次のような言葉がある。(「モーツァルトを聴く」~私のベスト1~) 

「一生の間、間断なく固執して作曲したジャンルに作曲家の本質が顕現している。ベートーヴェンは九つの交響曲、三十二のピアノ・ソナタ、十五の弦楽カルテットに生涯の足跡を刻み込んだ。

モーツァルトの真髄はオペラにありで、同じく生涯にわたって作曲されたピアノ・ソナタはいくつかの佳曲を含みながらも、弟子の訓練用に作られたことから、やや軽いといううらみを残す。

その中にあってイ短調K.310とハ短調K.457のソナタと幻想曲は、湧き出る欲求の赴くままに、報酬の当てもなく作られた故か、不思議な光芒を放って、深夜の空に浮かんでいる」

若い頃からモーツァルトのピアノ・ソナタ(全20曲)が好きで、好きで、もうCDが擦り切れるほど(?)聴いてきたが、石堂氏には恐縮だが「軽い」なんてことは毛頭思ったことがなかった。

モーツァルトは35年という短い生涯の中で600曲余を作曲したが、まるで変幻自在といった顔を持っており、深刻な色合いを帯びている調べを垣間見せたかと思えば、すぐに「な~んちゃって」と転調して茶化すところがあったりで、なかなか本性を見せない作曲家だが、このピアノ・ソナタだけは違う。

このソナタからは音楽家モーツァルトの本心から出た飾り気のない”つぶやき”と“ホンネ”がいつも聞えてくるような気がしてしかたがない。

たとえば「コンスタンチェ(妻)が僕の言うことをなかなか聞いてくれなくて困ってしまう」といった感じで自問自答というのか、孤独で淋しそうな独自の世界が貫かれている。

            

 例によって”凝り性”なので、演奏家によって違う解釈を聴き分けてやろうと、これまでいろんなピアニストの全集を手に入れて聴いてきた。

ギーゼキング、グールド、内田光子、ピリス、アラウ、シフの6名。皆、それぞれに個性があって楽しめたが、やはりダントツに印象に残るのはグレン・グールド(カナダ:1932~1982)だ。

彼の演奏を聴いていると、あらゆる雑念が取り払われて、「ただ、ただ音楽だけに没入する」という境地に自然となってしまう。タッチが独特のせいか音にも透明感があって実に明晰な響きで美しいし、まるで文章に句読点がうたれているかのようにメリハリがあって聴きやすい。

また、ピアニストだった母親の手ほどきで小さい頃から「唄うように弾きなさい」との教えのせいか、演奏中に聞えてくる独特のハミングも実に効果的でまるでこちらが呪文をかけられているみたい(笑)。

現代においても一流の演奏家たちがスランプに陥ったときはグールドの演奏を改めて聴き直すと読んだことがあるが、死後35年も経つのになぜこれほどまでに人々を魅了するのか、いったい他のピアニストとどこが違うんだろうかと、これはずっと長年の疑問だったが、「グールド再発見」という番組でようやく自分なりに解答らしきものにめぐりあったような気がした。

以前、音楽専門放送「クラシカ・ジャパン」(CS放送)による「グレン・グールド没後30周年の特集月間」という、まことにうれしい企画があって、すべて録画しておいた。

これまで「ヒア アフター」「ロシアへの道」など続々と関連番組を視聴したが、このうち「グールド再発見」は2005年の「グレン・グールド論」で吉田秀和賞を受賞された宮沢淳一氏(青山学院大教授)の解説によるものだった。

実に説得力があって、その中で展開された「王様と家来」論に大いに示唆を受けたので、参考にさせていただき未熟ながら自説を展開させてもらおう。、

(実はこの番組の冒頭でバッハのゴールドベルク変奏曲が聴こえてきたとき、あまりの崇高さに胸を打たれて思わず鳥肌が立ってしまった!


「クラシックの場合、王様とは作曲家のことであり、家来とは演奏家(指揮者を含めて)のことである。この世界は主従関係が実にはっきりしていて、基本的に家来は王様の意向に逆らうわけにはいかない。家来が可哀想~(笑)。

通常、私たちが演奏家たちから例外なく聞かされる言葉は常に「作曲家が遺したスコア(楽譜)に忠実に」で、まるでどれだけ(楽譜を)深読みできるかがその人の音楽家という資質の中で最大の要素を占めているかのようだ。 

ところが、グールドはまったく違うのである。彼の演奏は、作曲家の枠にとらわれることがなく、極端に言えばいったん曲目の音符をバラバラにして再構築するというやり方である。それも彼が一番尊敬する作曲家「バッハ」風にという注釈がつく。楽譜上における作曲家の指示なんて勝手に無視して、しかも原曲以上の効果を狙うのだから凄いといえば凄い。

しかし「お前はいったい何様だ。演奏家ふぜいで作曲家以上の存在なのか!」


たとえば、グールドの演奏で一番評判が悪いベートーヴェンの「熱情ソナタ」のように異常なスローテンポによる演奏がある。実はグールドは「熱情ソナタ」が大嫌いで「悪い曲ですからせいぜいこういう弾き方しかできませんよ」とばかりに極端なテンポで演奏しているというのだ。いくら楽聖ベートーヴェンが作曲したものだって、「悪いものは悪い」という姿勢だから、まさに空前絶後のピアニストである。

これに関連して、以前「グールド書簡集」を拾い読みしたことがあるが、残念なことにモーツァルトのソナタもグールドはそれほど高く評価していなかった。

同じピアニストのイングリット・ヘブラー女史が「グールドはなぜあんなに早く弾くのかしら」と驚いていた記事を見かけたことがあるが、ソナタ15番以降の滅茶苦茶に早いテンポの演奏は、いかにグールドが弾いたとはいえ二度と聴く気がしないが、そういうことだったのかとようやく納得がいった。異常な速さは(15番以降への)せめてもの「抵抗」の証しだったのだ。

かくして、グールドが他のピアニストと一番違うところ、そして今でも人気を誇る秘密の一端は作曲家が遺した楽譜の枠にとらわれず、「俺は作曲家だ」といわんばかりに演奏に独自のスタイルを貫いたことにある。

その一方、楽譜にあくまでも忠実に仕え、その枠内に閉じこもって音楽人生を無難にまっとうした演奏家たちが大半だが、残念なことに彼らは時の経過とともに次第に忘れ去られていくのが通例だ。

つまるところ「王様=作曲家」は永遠に名を残し、「家来=演奏家」は風化していく運命にあるとこれまでのクラシックの歴史が物語っている。

生存している間、当代一流の指揮者だったマーラー(1860~1911)がいい例で、今では作曲家としてだけ名を留めているのがせいぜいだ。大指揮者フルトヴェングラーに至っては王様になろうとして自ら楽譜を書いたが夢は適わなかった。

クラシックの歴史の中でグールドが放つ独特の魅力、それは「作曲家を演じようとしたピアニスト」だったことにあると思うがどうだろうか。

 

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