「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「クリエイティヴな演奏」って、いったい何?

2024年10月09日 | 音楽談義

ときどきメールをいただく方の中にジャズ愛好家の「I」さん(東海地方)がいらっしゃる。

傍(はた)から見るとクラシック愛好家とジャズ愛好家とでは「水と油」のような存在だろうが、何だか不思議に相通じるものがあるといつも感じている。

好例としてかって、次のようなメールをいただいたので勝手ながら紹介させていただこう。

「突然ですが、私のジャズの好みについてちょっと聞いてください。
 
最近、上村芳郎さんという哲学の先生が書かれている「村のホームページ」というブログに巡り会いました。
 
興味深い記事が多くあり、「村の茶屋・音楽の聴こえる喫茶店」の項でジャズについて述べられています。久しぶりに共感できるジャズ話に会ったという反面、そうでない部分も多くありました。まあ当たり前のことではありますが。
 
”村”さんに刺激を受けました。
 
私の好きなアヴァンギャルドなジャズについてです。
ふつう、アヴァンギャルド・ジャズというとフリージャズと相似的にとらえることが多いと思います。

私の場合は、フリー系の演奏が好きということはありますが、フリーとは無関係なマイルスやビル・エバンス等の演奏の中にもアヴァンギャルドは感じます。
 
どんなコンセプトに限らず、クリエイティブに向き合った演奏を、私の言葉でアヴァンギャルドと言っています。

そうなんです!これからは「クリエイティブなジャズが好き」と言います。
 
私がクリエイティブだと思う演奏・・・モンクとドルフィーとアルバート・アイラーは生涯に亘ってクリエイティブだったと思います。

オーネット・コールマンは1965年までクリエイティブだったと思います。

マイルスは、ご本人の演奏がクリエイティブだったのは、ウエイン・ショーターが参加する前までだったと思います。

ビル・エバンスはスコット・ラファロがいた時が正にクリエイティブだったと思います。

その他、ブッカー・リトル、ポール・ブレイ、アーチー・シェップ、ファラオ・サンダース・ジョージ・ラッセル・ジョージ・アダムス等々です・・・やはりフリーが多いかな(笑)
 
クリエイティブだと思わない演奏者

ホレス・シルバー、オスカー・ピーターソン、チック・コリア、キース・ジャレット、ハービー・ハンコック・・・ピアニストばかりだなあ(笑)
ソニー・ロリンズ、フレディ・ハバード、 その他フユージョン、クロスオーバーと言われる音楽をやる人達
 
なぜクリエイティブだと思わないかの理由ですが・・・。一口で言ってしまえば、いくら達者な演奏でも、「ハイ!一丁上がり!」を感じる演奏はご免です、ということです。

以上のとおりだが、演奏を聴きながらはたしてこれが「クリエイティブ」といえるのか、それとも「一丁上がり!」なのか、この辺の「微妙な差」を感覚的に嗅ぎ分けるのがクラシック、ジャズを問わず音楽愛好家の愛好家たる所以でしょうか。

これまで軽く100通以上のメールをいただいているので「I」さんの嗜好はおよそ把握している積りだが、想像するに「クリエイティブ」とはおそらく「創造的からもう一歩踏み込んで、演奏から感じる
思索的な余韻が後々まで尾を引くかどうか」ではなかろうかと勝手に推察している。

上記の演奏家の中で心当たりがある曲目としては「ソニー・ロリンズ」の「サキソフォン・コロッサス」ですかね。タイトルからして「コロッサス=巨大な彫像」だから気負ってます。

クラシックファンながら、この演奏にはある種の爽快感を覚えていたのだが、「I」さんから言われてみるとたしかに自己陶酔気味の演奏者による「ハイ!一丁上がり!」の感がありますね。

言い換えると、いかにも「どうだ、参ったか!」と「大見えを切ってくる演奏」・・。

まあ、こればかりは個人の受け止め方次第なので良し悪しとは別の話だが、この「大見えを切ってくる」演奏でふと思い出したのが五味康祐氏の「指揮者カラヤン」への評価だ。



「昔のカラヤンは素晴らしかった、それに引き換え今はすっかり堕落した」と遠慮会釈なく酷評する当時の五味さんの言い分はこうだ。(157頁:要約)

「カラヤンがなぜ低俗かを説明しておく。芝居を例にとると、下手な役者に限ってストーリーの高揚したドラマティックな場面にくると大見えを切り、どうだとばかりに力演する。

つまり低級な演技である。優れた役者はそういう場面ではむしろ芝居を抑え、さりげなく演じるから”いぶし銀”のように演技は光り、ドラマの感動も深い。

交響曲も似たようなもので何楽章のどの辺が劇的かは予め分かっている。それを大根役者のように大見えを切られたのでは聴く方はシラけるばかり。何と低俗な演奏だろうと思う。

第九の極めどころは哀切幽玄の極致とも言うべき第三楽章のアダージョと終楽章の歓喜の合唱だが、そのどちらでもカラヤンはまことに低俗な見栄ばかり切ったからいやらしい演奏と私は言う。昔はそうではなかった。

昭和27年に出た「魔笛」「フィガロの結婚」のカラヤンは素晴らしかった。以下略~」

さあ、「自家薬籠中」の「魔笛」の登場ですよ~(笑)。

カラヤンは魔笛を3~4回録音しているが、たしかに一番出来がいいのは最初の「昭和27年版=1952年版」だと思う。



王子役の「アントン・デルモータ」(テノール)の熱演が白眉だが、総じて出演者たちが伸び伸びと躍動している印象を受ける。

五味さんの説に引っ張られるわけではないが、
どうやらデビュー早々のカラヤンの初々しくて「クリエイティブ」に徹した姿勢が良かったような気がする。

芸術の分野において「権威と増長と大衆受け」が相関関係にあるとすれば、もう悲劇としか言いようがないが、その一例がこのカラヤンでしょうか。

当時長きにわたって帝王としてあれほど君臨したカラヤンなのに、「フルトヴェングラー」に比べると今やはるかに後塵を拝している所以もこの辺にありそうな気がする。

偏った見方かもしれないので、ほかに「ご意見」があれば歓迎します。

最後に、「クリエイティブ」な演奏についてネタを提供していただいた「I」さん、どうもありがとうございました。



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