現役を退いてからおよそ20年あまり経つのに、今でもがんじがらめに縛り付けられた思い出だけが残る37年間の宮仕え~。
その反動のせいか「自由を満喫する」、言い換えると「持っている時間を自由に使う」のが第一義なので、「押しつけがましいこと」にはことさら敏感になっている。
たとえば「強制」されたり、毎月定日定時に開かれるような催しなどは、もうそれだけで拒絶反応が起きてしまう~。
そういう視点からのアプローチとして、音楽にまつわるピッタリの文章がある。
「生きている。ただそれだけでありがたい。」(新井 満著:1988年芥川賞)の一節を紹介しよう。
著者が娘に対して「自分のお葬式の時にはサティのグノシェンヌ第5番をBGMでかけてくれ」と依頼しながらこう続く。
「それにしても、何故私はサティなんかを好きになってしまったのか。サティの作品はどれも似たような曲調だし、盛り上がりにも欠けている。淡々と始まり、淡々と終わり、魂を震わすような感動がない。
バッハやマーラーを聴く時とは大違いだ。 だが、心地よい。限りなく心地よい。
その心地よさの原因はサティが声高に聴け!と叫ばない音楽表現をしているせいだろう。サティの作品には驚くほど音符が少ない。スカスカだ。
音を聴くというよりはむしろ、音と音の間に横たわる沈黙を聴かされているようでもある。 沈黙とは譜面上、空白として表される。つまり白い音楽だ。
サティを聴くということは、白い静寂と沈黙の音楽に身をまかせて、時空の海をゆらりゆらりと漂い流れてゆくということ。
毎晩疲れ果てて帰宅し、ステレオの再生ボタンを押す。サティが流れてくる。昼間の喧騒を消しゴムで拭き消すように。静寂の空気があたりに満ちる。この白い壁の中には誰も侵入することができない。白い壁の中でたゆたう白い音楽。」
以上、これこそプロの作家が音楽について語る、まるでお手本のような筆致の文章で、自分のような「素人」がとても及ぶところではない(苦笑)。
で、以前にもこの「お気に入りの文章」を紹介したことがあったが、メル友さんからすぐに反応があった。大のクラシック愛好家で奥様はピアノの先生。
「最近になって第4番から第6番の3曲が新たに発見されて全6曲であることがわかりました。
グノシェンヌはサティの作った造語とのことです。
ギリシャ神話のクノックス宮殿や、キリスト教以前から存在していた神秘の宗教団体”グノーシス派”におそらくは関係があるのではないかと云われています。(以上 小原 孝のピアノ楽譜より)
早速、家内に弾いてもらって聴いてみますとゆったりと柔らかな音ですね!
確かに葬式の時に合う音楽で私も葬式のBGM候補にしたくなりました!
ただ・・・。
文面の「沈黙とは譜面上、空白として表される」ここがどうしても気になります。
スラーの多いのに気付きますがどこに空白が・・・。ご参考までに譜面を添付します。」
以上のようなご指摘だったが、たしかに空白はないものの音符の数が少ないことが際立っているので、著者はその点を象徴的に「沈黙=空白」として表現したかったように思うのですがどうなんでしょう。
なお、同書の冒頭の文章の中で一番興味を惹かれたのが「声高に聴け!と叫ばない音楽表現」という言葉。
実際に「俺の音楽を聴け」と命令されているわけでは無論ないが、どうもそういう気配が濃厚に感じられる音楽がたしかにある・・。
たとえば、あの楽聖「ベートーヴェン」は「音楽は哲学よりもさらに高い啓示である、さあ私の音楽に耳を傾けなさい」と言ったが・・、若い頃は感動も ”ひとしお” だったけど、人生も後半になると何だかときおり「押しつけがましさ」を感じて気分的に重たくなることがときどきある。
たしかに「いい音楽」には違いないし、聴けば心を揺り動かされるんだけど、どうも進んで聴こうという気がしない・・、クラシック・ファンでそう思う人はかなりいらっしゃるのではなかろうか。
その点、究極の自然体の音楽スタイルとなると、やっぱり「モーツァルト」の作品に尽きるように思う。
あの「天馬(てんま)空を駆けるような音楽」・・、「声高に聴け!」と叫ばない音楽表現の極致だと思うのですがいかがでしょうか・・、「また我田引水か」と外野席からヤジが飛んできそうだが(笑)。
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