讃岐うどんやラーメン食べ歩きと、旅のブログ

讃岐うどんの食べ歩きが好きです。また国内・海外問わず旅が好きなので、ぼちぼち書いていこうと思います。

まさかの「翔んで埼玉2」が公開予定らしい

2022-10-15 20:00:00 | 日記
 こんど、まさかの「翔んで埼玉2」が公開されるそうだ。GACKTや二階堂ふみさん達が出演した映画は大ヒットして、第二作が作られることになったということだ。宣伝用のポスターは「埼玉の皆様、続編作ってごめんなさい」です。しかーし、第一作は予想に反して(反していないかも)埼玉県民にも大うけだったらしいとうことは、風の噂に聞きました。

 第一作はTV放送されたので、見た方も多いと思います。N村も、TVで見た口です。(映画見ろよ) 本は持っているので、映画の前からだいたいのあらすじは抑えていました。


 N村は学生時代東京に住んでいたので、このあたりの笑いのツボは分かります。小金井市2年+保谷市(現西東京市)に2年住みました。貧乏学生だったので、もちろん部屋に風呂はありません。神田川の歌じゃないですが、近くの銭湯通いでした。東京は家賃が高いので、安い風呂無しアパートがあり、その人たちのための銭湯がたくさんあります。

 保谷駅は西武池袋線沿線にあり、埼玉方面から池袋駅に乗り入れています。朝は通勤ラッシュで死ぬほど込みますし、夜は夜で帰宅のサラリーマンや、池袋周辺で出来上がった酔いちくれのおっさんや、若者たちでにぎわいます。埼玉西武ライオンズのホームで野球があるときは、西武ファンも沢山乗っています。

 野球シーズン中は、電車の中や駅、西友・西武の店でも「おーおーおーらーいおーんず♪」という歌がエンドレスに聞こえるので、気が付いたら口ずさんでいたりします。(当時の話なので、今は知らない)また、駅駅にはライオンズファンクラブの申し込みができるブースがあるので、これまた気が付いたらファンクラブ会員になっていたという人も多かったのではないでしょうか。

 当時の西武球場の外野は芝生席だったので、ごろりーんと寝っ転がって、まったりと試合を楽しんだりすることができました。野球が終わると、当然西武球場駅前は激混みになるのだが、西武線の凄い所は臨機応変にダイヤを変えて、ほぼ人が駅に滞留しないように電車を運行することです。通常ダイヤではありえないような、すっごいスピードで走行して、大丈夫なのか(笑)という体験もできました。

 ということで、西武池袋線・西武新宿線は、埼玉県民の移動手段としては生命線といっていいでしょう。(ほんとか)池袋に埼玉県民が多いというのは、たぶん事実と思います。池袋駅の西側(東武デパートの方)は、けっこうハードなエリアが広がっていて(当時の話です)、治安はいまいちだけど、飲み屋や安い飲食店がありました。その中に、「ごはんですよ」をキープできる立ち食い定食屋があり、労働者の皆さんたちで、いつも賑わってました。棚の「ごはんですよ」にはボトルキープよろしく名前が書いていて、毎日のごはんのお供になっていたのでしょう。安いのでたまに友人と行きましたが、(一人ではさすがに怖かった)さすがにキープはしませんでした。

 夜になると酔っ払いが多くなり、さらに気を付けないといけないのですが、ある時前を歩いていたおっちゃんが、若者にいきなり蹴りを入れられて転倒したのを見て、あわてて逃げたことがあります。(もしかして、おやじ狩り?)

 当時のニュースでは、早朝に池袋のゲーセン店員が強盗(後に若者数人が逮捕された)に刺殺されるという事件も起きています。

 そんなハードな池袋周辺でしたが、数年前に訪れたらだいぶ様変わりをしていて、綺麗にはなっていました。夜は行かなかったので分かりませんが、だいぶ治安も良くなっているようには感じました。しかし、行きたいうどん屋もあったので、気を緩めることなく周辺を散策しました。(田舎者ですから)

 貧乏学生だったので、仕送りだけでは生活できず、バイトは必須でした。

【1~2回生】小金井居住
 授業が立て込んでいるので、基本的に土日のみ。夏休み・年末年始の繁忙期は、学校が休みなのでバイト可
 小金井駅前のS友小金井店(閉店)のレストランコルネットで、ホールのバイト。これは賄いつきだったので、昼飯や夜飯代が浮いて有難かった。後に、電器売り場のメーカー雇いが割がいいと聞いて、そちらに移る。時給ではなく、日給だった。しかし、閉店後も商品の発送・倉庫の片付けなどをやらされ、年末などは業務が深夜に及ぶこともあったが、日給に加算はなし。メーカー的には定時上りが基本との姿勢だが、現場はタダで使うだけ使うというスタンス。(給料はメーカーが払うし)今考えればブラックだけど、当時はそんなん当たり前であった。

 メーカーが雇わない時期があったけど、社員が推薦してくれて特別にS友雇いのバイトにしてもらった時期もある。(例外だっらしい)学生のバイト仲間も多く、けっこう楽しかった。

【3~4回生】保谷居住(現西東京市)
 1~2回生で単位がだいぶ取れたので、授業自体は減って自由な時間が増えた。自由時間はバイトにいそしんだけど、今考えたら自由な時間にもっと好きなことをしておけば良かったかなと思った。でも好きなことをやるためには金が必要なので、やっぱりバイトをするしか選択肢がなかったのかもしれない。

 本郷3丁目(後に湯島に移転)の〇SDラボラトリーという会社で、APPLEⅡメンテのバイトをする。初めて日本にアップルコンピューターを輸入・紹介したのはE〇Dです。その後、アップル社はES〇との総代理店の契約を打ち切り、東レに乗り換えました。その後、いろいろあって、キャノン販売に移ったりしました。米国企業はドライというか、利益のためには手段を択ばないという風潮もあるのかなと思います。(たいていの企業は、そうなんでしょうけど)米国のコンピューターなので、当然言語は英語なのですが、カナ小文字にも対応できるような改造も行ってました。1枚基板構成で、ICはソケットで搭載されているので、メンテ自体は容易でした。

 6502CPU、メモリーは最大48K搭載というスペックで、30万円以上もしましたが、NECのPC8001(Z80CPU)に比べると、抜きに出た性能だったので、それなりに人気でした。しばらくすると、コンパチ基板(パチモン)が秋葉原で売られるようになって、腕に自信があって金がない人は飛びついたようです。

 後に、当時ベンチャー企業でブイブイ言わせていた、某パソコンメーカーS社でバイトをする。これは、完全業務用で個人ユーザーを対象にしていない高価な8ビットパソコンでしたが、市場では受け入れられて飛ぶように売れていました。その流れで、うかつに新卒就職をしてしまったが、合言葉が「時間の切り売りをしない」という、全くもって企業優先論理の考え方で、残業代はいくらやっても定額というブラック会社でした。残業が多すぎて、会社に寝泊まりする人も多く、本社の最上階には2段ベッドが敷き詰められているという過酷な職場でした。(自分は本社ではなかったが)さらに、給料は良くないというブラック&ブラック企業。最初から給料が悪かったわけではなく、初めはめっちゃ給料が良かったらしいです。(少ない人数で死ぬほど働かせていたようなので)しかし、業績が伸び社員が増えたとたんに、給料をめっちゃ下げたということです。自分が入社した時点では安くなった後で、昔からの社員も下げられたという話は聞きました。

 時代は16ビットの時代に突入するが、無理な開発スケジュールに開発現場が付いてこられず、動作しないと分かっていて8/16ビットのデュアル機を市場に投入する。8ビットのソフトは動作するが、16ビット版ソフトの供給はまだ先なので、とりあえず売っちゃえというスタンスだったと思う。徐々に馬脚が現れ、リコールの嵐となる。リコール後に回収した機器が、また不具合を起こし更なるリコールに発展するという悪循環に陥る。この辺りで、すでに詰んでいると思うのだが、それでもそこそこ売れているので、イケイケ感満載で営業をするが、折しも世界の半導体不足に見舞われ、売れる機種でさえ生産できなくなり、完全に詰んだ。

 大手電機メーカーT社に支援を依頼して、吸収合併が決定。当然社長は退任し、経営陣はすべてクビになりました。管理職は平に格下げされて残るか、退職を余儀なくされましたが、平社員は雇用継続とのこと。安月給なので「やめる」と言ったら、本体工場に来ないかと誘われるが、待遇が悪そうなので断って退社しました。(どうせ外様は冷遇されるだろう)約5年勤務したが、特に愛着はありません。

 余談ですが、首になった経営陣はDOS/Vパソコンのカスタマイズ販売会社を興し、秋葉原に小さな店舗を開店しました。重役室で偉そうに(偉かったのですが)していた面々が、個人客相手に営業しているさまは、なんとなく複雑な気分でした。
 
 その後、東京の某N社に勤務したところ、某大手電機メーカーに出向させられ、某国家プロジェクトに係ることになる。(これは、ちょっと書けない)出張・残業・徹夜・休日出勤は当たり前だったけど、残業代はきっちり出たので、それなりには納得してました。全国を飛び回って、北海道~沖縄まで行きましたが、宿に戻っても深夜まで資料作りという過酷な仕事内容ではありました。「プロジェクトを1つやると、一人は死ぬよねー」と噂されてましたが、本当に過労で1人亡くなったので、潮時を見計らって死ぬ前に退職です。5年やってプロジェクト自体も収束し、そろそろいいかなと。仕事は、そこそこ面白かったけど、死ぬのはごめんです。

 なんとなく都会は嫌になったので九州に移住して地元の某企業に就職しましたが、いつのまにか全国区になっていて、大阪に飛ばされさらに東京に飛ばされるという悲惨さを味わいました。都会がいやで九州に移住したのに、それはないわー。周りには、そういう人がたくさんいました。最後は東京で定年を迎え、やっとのことで福岡に帰れました。東京は遊ぶところはたくさんあるれど、住み続けるのは性にあいません。

 そういうことなので、翔んで埼玉の背景も分かるのでござるよ。(やっと、結論かよ)
コメント (2)
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