昨日の続きですが、JR折尾駅の南側にはこきたない川(失礼)があり、飲食店などが川沿いに並んでいるのは、知っている人は多いだろう。この川を「堀川」といいます。
今回は、この堀川を遡っていくことにします。川幅は広く護岸工事はされているのですが、水の流れは少なく、お世辞にも清流とはいえません。
ずんずん進んでいくと、隣の水巻町に入ります。少し水が増えてきましたが、流れはめっちゃ緩やかです。
今回の目的地「車返しの切通し跡」に到着しました。
平成17年に文化財調査を行ったところ、1.8mのヘドロを除去した後に、昔の河床が発見されたとのことです。これは、川ひらたの接岸設備の一部と考えられており、1751年~59年の堀川開削工事に関係するものとされています。堀川は、遠賀川と洞海湾を結ぶ運河として建設されました。そのため、堀川運河とも呼ばれています。
堀川掘削工事の歴史年表があったので、載せておきます。徳川家康が、江戸幕府を開いたころからの歴史があります。
ちょうど、河守神社があるのでお参りしていきましょう。この神社も由緒があり、当時川に出入りする船の護り役を務めていたとのことです。
これは明治の中期の頃に撮られた写真ですが、水嵩も高く比較的大きな船が行きかっていた様子が分かります。
堀川の全長は11.8Kmで、江戸時代の運河の中では岡山倉安川に次いで2番目の長さだったそうです。そう思うと、駅前のどぶ川というイメージが一変しました。
再び、折尾駅に向かって帰りますが、途中で「舫石」(もやいいし)があるので、寄っていきましょう。
↓これです。
舫石(もやいいし)ってなに?と思った方、筑豊からの石炭を運ぶ船や、若松から物資を運ぶ船が行きかっていたので、一時的に船を係留するための石のことです。良く港などに船を係留する鉄の係留柱がありますが、あの石版ということです。当初は、洪水防止の運河でしたが、やがて物資の輸送へと用途が変遷していったので、行き交う船も多くなり、こういう設備も必要になったのでしょう。写真を見ると、川面から舫石まで高低差がかなりありますが、昔はもっと水量豊かだったと思われます。
今回は、この堀川を遡っていくことにします。川幅は広く護岸工事はされているのですが、水の流れは少なく、お世辞にも清流とはいえません。
ずんずん進んでいくと、隣の水巻町に入ります。少し水が増えてきましたが、流れはめっちゃ緩やかです。
今回の目的地「車返しの切通し跡」に到着しました。
平成17年に文化財調査を行ったところ、1.8mのヘドロを除去した後に、昔の河床が発見されたとのことです。これは、川ひらたの接岸設備の一部と考えられており、1751年~59年の堀川開削工事に関係するものとされています。堀川は、遠賀川と洞海湾を結ぶ運河として建設されました。そのため、堀川運河とも呼ばれています。
堀川掘削工事の歴史年表があったので、載せておきます。徳川家康が、江戸幕府を開いたころからの歴史があります。
ちょうど、河守神社があるのでお参りしていきましょう。この神社も由緒があり、当時川に出入りする船の護り役を務めていたとのことです。
これは明治の中期の頃に撮られた写真ですが、水嵩も高く比較的大きな船が行きかっていた様子が分かります。
堀川の全長は11.8Kmで、江戸時代の運河の中では岡山倉安川に次いで2番目の長さだったそうです。そう思うと、駅前のどぶ川というイメージが一変しました。
再び、折尾駅に向かって帰りますが、途中で「舫石」(もやいいし)があるので、寄っていきましょう。
↓これです。
舫石(もやいいし)ってなに?と思った方、筑豊からの石炭を運ぶ船や、若松から物資を運ぶ船が行きかっていたので、一時的に船を係留するための石のことです。良く港などに船を係留する鉄の係留柱がありますが、あの石版ということです。当初は、洪水防止の運河でしたが、やがて物資の輸送へと用途が変遷していったので、行き交う船も多くなり、こういう設備も必要になったのでしょう。写真を見ると、川面から舫石まで高低差がかなりありますが、昔はもっと水量豊かだったと思われます。