新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ

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特攻隊の化身かホタルとツバメ

2015年07月30日 | 社会

  

 

 戦後70年、鎮魂の物語

2015年7月31日

 

 今夏は戦後70年という節目です。悲惨な戦争の象徴でもある特攻隊員の鎮魂の物語を、知人がメールで送ってきてくれました。何年か前にまとめた文章を、目に触れなかった人もいるだろうと、添え書きして送ってきたのです。題名は「ホタルとツバメ」。他の人からの見聞記に自分の体験記を交えた文章です。物語をかいつまんでお伝えしましょう。カッコ内はわたしの説明文です。


 (話は特攻隊の基地があった鹿児島県知覧から始まります。軍指定の食堂「富屋食堂」が舞台です。)

 

 昭和20年6月6日、特攻隊員が出撃したその夜9時、食堂に一匹のホタルが飛び込んできました。前日に20歳の誕生日を迎えた宮川軍曹が、食堂でお祝いの赤飯をご馳走になりました。軍曹は食堂のママさんたちに、「あしたホタルになって帰ってくるから、追い払ったらだめだよ」と、語りかけていたというのです。


 ホタルを指して食堂の娘さんが「あっ、宮川さんだ」と、叫びました。ママさんも、食堂にいた兵隊さんたちに、「皆さん、宮川さんが帰ってきましたよ」と、知らせるのです。ホタルは長い間、天井のはりに止まり、しばらくしてすっといなっくなったそうです。出撃の機会がなく、生き残ってしまったという思いの上司の曹長は、敗戦直後、軍曹たちの墓参を終えてから、自宅で自ら命を絶ったそうです。


 (ここまでは、知る人ぞ知る、ある程度、有名な話のようですね。鎮魂の物語はここから後半に移り、筆者、つまりわたしの知人自身の体験記になります。知人は何年か前までの現役当時、都立公園の管理・運営が仕事でした。)


 担当する公園のひとつが「武蔵野の森公園」で、陸軍の調布飛行場の跡地です。調布飛行場の部隊は帝都防衛が任務のほか、特攻機のための基地でもありました。たくさんの特攻機が九州の基地に向けて飛び立っていったのです。ここを出発した特攻機の飛行士8人が、宮川軍曹のホタルの物語にでてくる同じ20年6月6日、特攻作戦で散華しました。


 (ここから知人の物語は一転、今の時代に移ります。)


 軍用機を空爆から守るための掩体壕(えんたいごう)が武蔵野公園の一部に残存していることが分りました。この戦争遺跡の保存を願う市民運動が起き、都はそれに応えました。遺跡は整備され、平成18年から、公開されるようになりました。壕には特攻隊機「飛燕」(ひえん)の実物大の壁画と、縮小した模型が展示されています。


 (知人の話は、ここで意外な展開をみせます。)

 

 整備作業の直後、真新しい施設の一部にツバメが営巣を始めました。4羽の雛がかえり、飛び立っていきました。ツバメと「飛燕」。このツバメはあのホタルのように、「飛燕」で飛び立って帰らなかった特攻隊員の生まれ変わりではないか。この話は新聞の地元版に「営巣ツバメに特攻隊員の面影」という見出しで取り上げられました。飛び立ったひなツバメの行き先は南の鹿児島県知覧なのかもれない。


 (ここで知人の話は終わります。わたしが付け加える終章があります。)

 

 戦士した特攻隊員は6400人といわれます。知覧には特攻平和会館もあり、「富屋食堂」も記念館として、現地で保存されています。われわれ同窓生の恩師が今もお元気で、何年か前にこの食堂を訪れ、写真も撮ってきました。先日、こじんまりとした同窓会があり、恩師も出席され、「ホタルとツバメ」の話で集まりは盛り上がりました。


 その際、戦争当時、学生だった恩師が「勤労学生として動員され、調布飛行場の掩体壕つくりを手伝った」と、いうではありませんか。特攻機と関係の深い調布飛行場です。初めて聞く秘話ですね。いくつもの話が折り重なった不思議な鎮魂の物語になりました。調布飛行場といえば、最近、失速した軽飛行機が離陸直後に失速、民家に墜落し、死傷者がでる事故がありました。


 




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