新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ

全国紙の元記者・中村仁がジャーナリストの経験を生かしたブログ
政治、経済、社会問題、メディア論などのニュースをえぐる

不法占拠の北方領土は「ウクライナ人が住民の4割」のなぜ

2022年04月24日 | 政治

 

100年以上前にロシア極東に大挙移住

2022年4月24日

 外務省は22年度版の外交青書で北方領土について「日本固有の領土であるのに、ロシアに不法占拠されている」と記述し、19年ぶりに「不法占拠」という表現を復活させました。

 

 北方領土返還を期待して、ロシアを刺激したくないとの遠慮があったのでしょう。そんな気遣いと無関係に、ロシアのウクライナ侵略で返還交渉は断絶しました。ロシアは極東で軍備増強を進め、北方領土に軍事基地を設営してます。国際情勢のよほどの激変がない限り、返還はありえません。

 

 それとの関連で「北方領土の住民(1・7万人)の4割がなんとウクライナ人(ウクライナ系)」という指摘が聞かれるようになりました。北海道新聞が「島民の3人に1人がウクライナ出身」(15年8月)という記事を書いているそうですから、以前から知る人ぞ知るだったのでしょう。

 

 それが俄然、注目されるようになったのは、「ウクライナ出身者による不法占拠が北方領土で続いているのに、そのウクライナを日本はなぜ支援するのか」という批判の浮上ががきっかけです。

 

 「ゼレンスキー大統領の国会演説(3月23日)の際には、ウクライナ人は島を離れて日本に返還するよう呼びかけるべきだ。それを演説受け入れの条件にすべきだ」と主張する論者も現れました。

 

 私は「なぜそんなに大勢のウクライナ人が北方領土に住み着いているのだろう」と不思議な気持ちになりました。その理由が分からなければ、「そんなウクライナを支援すべきでない」という結論にもたどりつけません。

 

 そんなおり、書店で「物語ウクライナの歴史」(黒川祐次著、中央公論)を見つけ、読んでみました。著者は元外交官で、駐ウクライナ大使も務めました。初版は02年で、ウクライナ侵略で大増刷され、この4月には12版を数えたロングセラーです。

 

 残念なことに、記述が1991年のウクライナ独立、ソ連の解体・消滅で終わっています。その後の歴史の流れには触れていません。それでも私が「なぜ」と思った疑問の説明につながる歴史的な経緯が分かります。

 

 「ロシア帝国内のウクライナでは、農民が1880年から20世紀はじめにかけて、ウラル山脈以東に大挙して移民した。帝国の国境を越えることは許されなかったので、中央アジア、シベリアにも移民し、最も多かったのははるか数千キロも離れたロシア極東だった」。

 

 「1896ー1906年に160万人のウクライナ人が東方に移住した。その頃、シベリア鉄道が完成(1903年)したこともあった。1914年にはロシア極東地方では、ロシア人の2倍にあたる200万人のウクライナ人が定住していた」。

 

 「現在でもロシア極東の住民は、過半数がウクライナ人といわれる。移住から1世紀も経っているので、ウクライナ起源でありながら、自らをウクライナ人と意識ぜず、ロシア人と思っている者が多いらしい」。

 

 第二次大戦終結当時、ソ連(スターリン当時)が北方領土を不法占拠し、すぐに住民を大量に移住させ、実効支配を既成事実化しようとしたのでしょう。極東の住民の過半数がウクライナ出身とすれば、北方領土の島民についても4割を占めるに至った謎も解けてきます。

 

 そうだとすれば、「不法占拠を続けるウクライナ支援をなぜするのか」「島を離れて日本に返還するように」と主張しても、現在のウクライナ政権に対する呼びかけとしてはどうなのでしょうか。

 

 ウクライナ人の大挙移住の理由について、著者は「ロシア政権による農奴解放政策の失敗、土地の細分化、農民の貧困と失業などが遠隔地への移住圧力を生んだ」と指摘します。ロシア支配下の農政の失敗が原因とみる。

 

 歴史の流れを振り返ると、「帝政ロシア時代の1900年前後に、貧困から逃れるためにウクライナ人が極東に大挙移住」、「ソ連邦が1922年に成立し、ウクライナも構成国(事実上のロシア支配)に」、「第二次大戦の終結(1945年)と北方領土の占拠、ロシアからの移住促進」、「ソ連と領土返還交渉の開始(56年~)」、「ウクライナが独立、ソ連崩壊(91年)」です。

 

 安倍首相はプーチン露大統領と首脳会談を重ね、領土交渉を続けました。北方領土の島民の4割がウクライナ出身者であることを安倍首相側は知っていたはずなのに、ウクライナへの呼びかけは全くしていません。

 

 いまさら、「ウクライナ人は祖国に帰れ」といっても、無反応でしょう。住んでいるウクライナ出身者も自らをロシア人と思っているから、そういわれても困る。祖国に帰ろうにも、故郷は露軍の破壊で廃墟と化している。

 

 ウクラナとソ連との関係では、著者は「1920年頃の飢饉でウクライナ人に100万人の死者」、「32年頃の大飢饉では350万人の死者」という悲惨な歴史を書いています。主にソ連支配下での農政(集団農業政策)の失敗によるとみています。「スラブ3兄弟」という言い方はロシアの独りよがりでしょう。

 

 さらに「19世紀末にはユダヤ人が200万人いた」とし、ゼレンスキー大統領がユダヤ系である理由も分かります。ナチス・ドイツによるウクライナ人のユダヤ人虐殺にも触れ、「1941年、3・4万人がキエフ郊外に集められ、射殺され、穴に埋められた」と。ドイツに厳しい理由はそこにもある。

 

 大虐殺と穴埋め、大飢饉と大量の餓死者、欧州列強によるウクライナ分割の繰り返し、戦時の焦土作戦など凄まじい歴史が淡々と描写されています。日々、送られてくる現地の映像を見ながら、そういう歴史を生き抜いてきた延長線上に今のウクライナがあると、思わされます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿