与野党、憲法学者もおかしい
2015年6月20日
国会で安保関連法案をめぐり、党首討論、与野党間の質疑が行われています。安倍首相の答弁は蛇行を続けており、以前だったら国会運営は行き詰っていたかもしれません。混戦した議論を解きほぐすどころか、ますます糸がこんがらがっています。メディアは特に読売対朝日が真っ向、正反対の主張を展開し、一致点はほとんどありません。有権者はどう考えたらよいのでしょうか、困りましたね。
議論が迷走するきっかけを作ったのは、政権側にあり、砂川事件最高裁判決を持ち出し、一連の安保法制改革の法的な論拠に据えようとしたからと思います。自公協議の責任者の高村副総裁がこの判決を発掘してきたとき、政権側は「しめた。よくやった」という雰囲気だったのに対し、多くの人は「今回の安保法制改革はどんな接点があるのだろう」と、疑問に思ったはずです。
砂川判決の引用で墓穴か
米軍の駐留が戦争放棄、戦力不保持を定めた憲法9条に違反するか否かの事件です。最高裁は59年、米軍駐留を合憲とし、「自国の平和、安全、存立のために自衛の措置をとりうる。国家固有の権能の行使である」との判断を示しました。これは極めてまともな判断だと思います。高村氏はさらに拡大解釈し、「砂川判決は自衛権のことをいっているだけで、個別的自衛権と集団的自衛権を区別していない。だから今回の法整備における集団的自衛権の行使は憲法違反にならない」と主張しています。安倍首相も同じです。
問題はそう簡単ではありません。政府は72年「集団的自衛権は、憲法で認められた必要最小限度を超えている」との見解をだしているからです。同じ自民党でも、安倍以前の歴代政権は「違憲だ」といい、安倍政権は「合憲だ」という。その根拠は国際環境、国際情勢の変化にあるとし、「行使にあたって厳しい新3要件という条件もつけており、政権が憲法解釈を変えることに論理的整合性がある」としているのです。
こだわりすぎた論理的整合性
どうも憲法の制約との関係、これまでの憲法解釈との論理的整合性にこだわるあまり、59年の砂川判決、72年の政府見解に言及してしまい、あちこちから矛盾をつかれ、政権は泥沼に踏み込んでしまったようですね。わたしは国際情勢が厳しくなり、新しい時代に対応した安保法制に変える必要はあると思います。どこの国にも認められている個別的自衛権、国連憲章51条で認めている集団的自衛権との関係を重視し、国際情勢は憲法制定当時と様変わりしたと、強調するほうが明快であったような気がしています。
読売新聞の社説は「集団的自衛権は最高裁判決とも整合性がある」(19日)と、安倍政権と同様の主張をしています。朝日新聞は民主党と同様、「憲法違反の疑念は払拭されていない」(18日)と指摘し、真っ向勝負ですね。国会の参考人になった3人の憲法学者はいづれも「違憲だ」でした。安倍政権が憲法の領域に踏み込んできて、勝手な論理を展開しているとの思いなのでしょうか。
新しい時代に即応する安保法制の修正は必要です。そこを与野党、憲法学者は議論しなければなりません。それなのに、安倍政権は憲法および憲法解釈との論理的整合性という難題で躓きました。野党は「憲法違反だ」と追求するばかりです。これまで憲法改正の拒否を続け、与党が安保法制の修正に踏み込むと、「違憲だ」です。「では安保法制の修正は必要ないのか」、「必要ないなら万が一の危機の際はどうする」、「憲法を改正するなら、安保法制の修正を認めるというのか」。肝心なのはそこですよ。
実質的に縮小する安保構想
安倍首相は国会で答弁するたびに、矛盾や国民の反応を気にして、初め考えていた安保構想を相当に縮小していると思われます。「切れ目のない安保法制を」と強調しながら、今や「集団的自衛権の行使は、ホルムズ海峡有事の際の機雷掃海のみ」に後退しました。「えっ。あれだけ大騒ぎしておきながら、たったそれだけなの」ですね。戦闘中の米軍に対する後方支援は、「戦闘がないと見込まれる場所に限定」と、これまた後退し、これでは何のための米軍支援なのか分らなくなりました。
当初、首相は「深刻なエネルギー危機の発生」を存立危機のひとつにあげていたはずです。今や維新の党の協力をとりつけるために、「経済危機では自衛隊を派遣しない」ことが検討されているとか。「集団的自衛権の行使を含め、戦後最大級の安保法制改革」(首相)の範囲がどんどん狭まってきているといえないでしょうか。それがいいのか悪いのか。
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