今日は代官山ヒルサイドテラスというところに来ました。こちらでは、昨年で没後500年を迎えたルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの作品にスポットを当てた《夢の実現展》という独自の試みによる展覧会が開かれています。
『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』が展示されています。メディチ銀行の番頭格だったベンチ家の息女ジネヴラの姿を描いたもので、現在ワシントンのナショナル・ギャラリーに所蔵されています。
このようなほぼ真四角のものとなっています。実物の右端と下部に切断された痕があるのですが、どうやら水に浸かってしまったか何かで顔料が剥離してしまったらしく、その結果、当時の所有者が切断してしまったようなのです。
この絵の注文主ベルナルド・ベンボの紋章に似せた賛辞が描かれています。現在は額に入っているため、この裏面は現地でも見ることは出来ません。そういった意味でも貴重な展示です。
レオナルドが構想していた戦闘武器や
今から500年前に、今日で言うボールベアリングを考え出していたのです。このあたりが、レオナルドを天才と言わしめる要因です。
こちらに展示されている作品は、退色した色彩や何らかの事情による欠損部分を、下絵の赤外線写真や残されたスケッチ等に基づいて科学的に再現したものとなっています。
ウフィツィ美術館所蔵の『受胎告知』です。レオナルド20歳頃の作品で、聖母マリアに神の子であるイエス・キリストを宿したことを大天使ガブリエルが伝える聖書の場面を描いた作品で、2007年に初来日した時には5時間待ちの大行列となりました。
このように斜めに観るとマリアと書見台の位置もいい感じになりますし、大天使の衣の裾も自然な長さに見えます。
この絵には元々教会の聖具室という縦長の部屋の壁の上の方にあった絵なので、正面から見ることはありませんでした。レオナルドはその『正面から見ない』ことまで考察して、この絵を描いたのでした。ここまで来ると天才を通り越して、変態の域に達していると言っても過言ではありません(褒め言葉です)。
『受胎告知』の隣には
ヴァチカン美術館所蔵の『聖ヒエロニムス』が展示されています。この絵は元々着色されることなく放置されたものですが、同時代の画家による同じ主題の絵や『モナ・リザ』の背景の技法等から、レオナルドの意図していた色彩を割り出し再現したものとなっています。
その彩色画から起こした立体フィギュアを撮影させて頂きました。実物を見ると、これはこれでかなりの力作です。
ミラノ時代の名品である『白貂(しろてん)を抱く貴婦人』や
『ラ・ベル・フェロニエール』、それにレオナルドが生涯手元に置いて離さなかった三つの作品、
『聖アンナと聖母子』、
『洗礼者ヨハネ』、
そして言わずと知れた『ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)』が展示されていました。
何とこの展覧会を監修された東京造形大学教授の池上英洋氏による解説トークが始まっていました。なので、私もちゃっかり混ぜて頂くことにしました。
上の写真の画面中央辺り、松の木の幹の瘤のようなものの下に、縦に7〜8本出ている筋が、レオナルド・ダ・ヴィンチ自身の恐らく左手小指の指紋だというのです。これはワシントンのナショナル・ギャラリーに行って本物を観ても、恐らく分からないのではないかと思われます。そうした衝撃の事実を目の当たりに出来るのも、こうした高精細な復元技術の成せる技と言えるでしょう。
『モナ・リザ』の横にこうして人が立つと、思いの外大きさがあることが実感できます。ルーブル美術館では防弾ガラスの遥か彼方に展示してあって、決してこんな近くで観賞することは出来ません。こうしたことも、私にとって貴重な体験となりました。
6つの墓室を備え、頂上にブラマンテ風の円形神殿を構えた大墳墓や、
『集中式聖堂』といったアイデアが、模型と3DCGとで実像化されていました。これらは学生諸氏が時間をかけて制作したものとのことでしたが、その精巧さから制作時の御苦労が窺えます。
2つの『岩窟の聖母』が並んでいました。右が始めに制作されたもので現在はルーブル美術館に、左はその20年後に制作されたもので、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されています。この2つがこうして並ぶことは先ず有り得ませんので、貴重なツーショットということになります。
ルーブル美術館版でした。しかし、教会から伝統に則った事細かいディテールの注文があったにも関わらず、レオナルドは聖母子や幼子の姿の洗礼者ヨハネの頭上の光輪やヨハネの十字形の杖といったリアリティの無いものを描きませんでした。そのことによって注文主たる教会は受け取りを拒否、更に支払額の問題も加わって、何と20年にも及ぶ裁判沙汰となるのです。
同じく登場人物たちの手の表情です。幼子イエス・キリストに合掌する洗礼者ヨハネ、そのヨハネに祝福を与えるイエス、意味ありげにこちらを見つめながらヨハネを指差す天使、そしてそれらを包み込むような聖母マリアの左手…これらの交錯する手と手が、この一瞬の場面に程よいリズムと緊迫感を与えています。
そして、前作の裁判の結審後に改めて制作されたのが
ロンドン・ナショナル・ギャラリー版です。描き直す気の全くなかったレオナルドは、何と係争中にルーブル美術館版の絵を売却してしまいます。そして新たにこのバージョンが制作され、頭上の光輪といったディテールもほぼ注文主の意図通りとなりました。ただ、この絵の制作期レオナルドはミラノには定住していなかったため共同制作者であるアンブロージョに殆どの部分を任せて、レオナルド自身はミラノに通いながら時折筆を入れていたようです。なので、正直こちらのバージョンからは、いわゆるレオナルドらしさがあまり感じられません。
これまたウフィツィ美術館所蔵の名品である『東方三博士の礼拝』がありました。
横に人が立つと、その大きさがよく分かります。図鑑に243✕246cmなどと数字だけで書かれていてもよく分かりませんが、こうして実物大を見せられると圧倒されます。
名作『最後の晩餐』の復元画像が投影されていました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは《最後の晩餐》や《ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)》等、世界で最も知られた絵画を手がけた画家として有名ですが、実は67年の生涯の中で残した作品は16点しかありません(同じく作品数が少ないといわれているヨハネス・フェルメールですら35点現存していますから、レオナルドの絵画作品数がいかに少ないか分かって頂けるかと思います)。しかもレオナルドの絵画作品の多くは未完成だったり欠損してしまっていたりして、完品に至ってはわずか4点しかないのです。
この展覧会は、東京造形大学の教員と学生たちが『レオナルドが嘗て抱いていた夢の一部を500年後の現代に実現させる』をコンセプトに、実物の赤外線写真や様々な資料を基にして、未完成作品に彩色を施したり、欠損部分を科学的根拠に基づいて補ったりして、レオナルドの全16の絵画作品をヴァーチャル復元するプロジェクトを行った成果の展示を行ったものです。
会場に入ると
『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』が展示されています。メディチ銀行の番頭格だったベンチ家の息女ジネヴラの姿を描いたもので、現在ワシントンのナショナル・ギャラリーに所蔵されています。
この作品の現在の姿は
このようなほぼ真四角のものとなっています。実物の右端と下部に切断された痕があるのですが、どうやら水に浸かってしまったか何かで顔料が剥離してしまったらしく、その結果、当時の所有者が切断してしまったようなのです。
この復元に際して参考になったのが、レオナルドの師匠であるヴェロッキオが残した『花束を持つ婦人』という彫刻と、レオナルド自身による手の習作です。『花束を持つ婦人』像は同じくジヴブラ・デ・ベンチがモデルとなっていることが分かっているので、恐らくその制作現場の横でレオナルドが筆をとっていた可能性が高いという考察に基づいて、それらのポーズがこの絵の欠損部分の復元に応用されました。
この絵には裏側もあって
この絵の注文主ベルナルド・ベンボの紋章に似せた賛辞が描かれています。現在は額に入っているため、この裏面は現地でも見ることは出来ません。そういった意味でも貴重な展示です。
次の部屋は、エンジニアとしてのレオナルドの一面を伺わせる展示室となっています。
レオナルドがフィレンツェを離れて当時新興国だったミラノに自身を売り込むにあたり、自薦状に書いた10の項目のうちの9項目は軍事に関わるものでした。ここでは
レオナルドが構想していた戦闘武器や
当時の技術では実現不可能だった工学系発明等を、縮小模型や3DCGなどによって具現化したコーナーです。
ミラノへの売込みのメイン項目だった軍事技師としては、発想はともかく、実際に使うには重過ぎたり、大き過ぎたり、当時の技術では制作出来なかったりして実用には向かないものが殆どでした。ただ、軍事の一環として地形把握のために作った手押し車式の距離計測車というものを開発し、間宮林蔵や伊能忠敬もビックリの正確無比な地図を作ったりもしています。
またレオナルドは、様々な工学系作品のアイデアを書き残しています。その中に、初動を加えれば永遠に動き続ける永久機関に関するものがいくつかありますが、作成計画を立てると同時に永久機関が実際には成立しないことも、実はレオナルドには分かっていました。
ただ、転んでもただでは起きないレオナルド、逆にどうして永久機関が成立しないのかを考察して摩擦が抵抗力となることに気づきます。そして摩擦抵抗を極限まで小さくするためにはどうすればいいかと考えた上で、物体として一番接地面積が小さいのは球体だという結論に至り
今から500年前に、今日で言うボールベアリングを考え出していたのです。このあたりが、レオナルドを天才と言わしめる要因です。
さて、次はいよいよ絵画作品の展示です。
こちらに展示されている作品は、退色した色彩や何らかの事情による欠損部分を、下絵の赤外線写真や残されたスケッチ等に基づいて科学的に再現したものとなっています。
余談ですが、上の写真の右端にある『サルヴァトール・ムンディ(世界の救い主)』という絵は2017年10月にニューヨークのクリスティーズで開かれたオークションで、史上最高値である508億円(手数料込)で落札されてニュースにもなりました。
フィレンツェで活躍していた頃のレオナルドの唯一の完成品と言えば、何と言っても
ウフィツィ美術館所蔵の『受胎告知』です。レオナルド20歳頃の作品で、聖母マリアに神の子であるイエス・キリストを宿したことを大天使ガブリエルが伝える聖書の場面を描いた作品で、2007年に初来日した時には5時間待ちの大行列となりました。
一見すると聖母マリアと書見台の場所が合わなかったり、聖母マリアの右腕がやたら長かったり、大天使の衣が寸詰まりだったりして、何だかアンバランスな感が否めません。
しかし、
このように斜めに観るとマリアと書見台の位置もいい感じになりますし、大天使の衣の裾も自然な長さに見えます。
この絵には元々教会の聖具室という縦長の部屋の壁の上の方にあった絵なので、正面から見ることはありませんでした。レオナルドはその『正面から見ない』ことまで考察して、この絵を描いたのでした。ここまで来ると天才を通り越して、変態の域に達していると言っても過言ではありません(褒め言葉です)。
『受胎告知』の隣には
ヴァチカン美術館所蔵の『聖ヒエロニムス』が展示されています。この絵は元々着色されることなく放置されたものですが、同時代の画家による同じ主題の絵や『モナ・リザ』の背景の技法等から、レオナルドの意図していた色彩を割り出し再現したものとなっています。
更に、嘗てレオナルドがフィレンツェ市庁舎の500人広間に描いたものの未完に終わった『アンギアーリの戦い』の再現彩色もありました。今は上から別な絵が塗り込められてしまっているこの絵にはルーベンスらによる模写が残されていて、それを元にした再現となっていました。ただ、この絵だけはイタリア本国の所蔵先からの撮影許可がなかったようなので、
その彩色画から起こした立体フィギュアを撮影させて頂きました。実物を見ると、これはこれでかなりの力作です。
その隣のコーナーには
ミラノ時代の名品である『白貂(しろてん)を抱く貴婦人』や
『ラ・ベル・フェロニエール』、それにレオナルドが生涯手元に置いて離さなかった三つの作品、
『聖アンナと聖母子』、
『洗礼者ヨハネ』、
そして言わずと知れた『ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)』が展示されていました。
我々が今日ルーブル美術館等で観るこれらの作品は、経年変化や上に塗られたニスの変色等によってだいぶ黄色っぽく見えるようになっています。それを今回のプロジェクトで可能な限り往時の色彩を割り出して再現してあるのですが、こうして見ると、背景や人物の肌の色鮮やかさに驚かされます。
そうこうしていると、何やら私がさっきまでいた部屋が賑やかになってきました。何かと思ったら、
何とこの展覧会を監修された東京造形大学教授の池上英洋氏による解説トークが始まっていました。なので、私もちゃっかり混ぜて頂くことにしました。
最初に観た『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』の絵のところでいろいろな解説があったのですが、そこで池上教授から衝撃的な裏話がありました。この絵の中程の画面に、何とレオナルドの指紋が残っているというのです!
上の写真の画面中央辺り、松の木の幹の瘤のようなものの下に、縦に7〜8本出ている筋が、レオナルド・ダ・ヴィンチ自身の恐らく左手小指の指紋だというのです。これはワシントンのナショナル・ギャラリーに行って本物を観ても、恐らく分からないのではないかと思われます。そうした衝撃の事実を目の当たりに出来るのも、こうした高精細な復元技術の成せる技と言えるでしょう。
嘗てヴァチカンのシスティーナ礼拝堂のフレスコ画『最後の審判』を修復した際、漆喰に塗り込められた絵の具の中からミケランジェロが使っていた絵筆の豚毛が数本発見されたことがありました。その豚毛と言いこの指紋と言い、こうした巨匠の痕跡の発見の最先端に居られることも、修復作業に関わる人間の醍醐味と言えるかも知れません。
ところで今回の展覧会の特徴は、どの作品も基本的に原寸大で展示されているということです。図版で見ているだけでは分かりませんが、例えば
ところで今回の展覧会の特徴は、どの作品も基本的に原寸大で展示されているということです。図版で見ているだけでは分かりませんが、例えば
『モナ・リザ』の横にこうして人が立つと、思いの外大きさがあることが実感できます。ルーブル美術館では防弾ガラスの遥か彼方に展示してあって、決してこんな近くで観賞することは出来ません。こうしたことも、私にとって貴重な体験となりました。
次の部屋は、建築家レオナルドのコーナーです。
レオナルドの手稿には様々なアイデアが記録されていますが、建築もそのひとつです。実際に建てられたものはフランスのシャンボール城の二重螺旋階段等しかありませんが、手稿の中には
6つの墓室を備え、頂上にブラマンテ風の円形神殿を構えた大墳墓や、
『集中式聖堂』といったアイデアが、模型と3DCGとで実像化されていました。これらは学生諸氏が時間をかけて制作したものとのことでしたが、その精巧さから制作時の御苦労が窺えます。
次の部屋に入ると
2つの『岩窟の聖母』が並んでいました。右が始めに制作されたもので現在はルーブル美術館に、左はその20年後に制作されたもので、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されています。この2つがこうして並ぶことは先ず有り得ませんので、貴重なツーショットということになります。
因みに斜めな写真になっているのは、ちょうどこの絵の正面が大きな窓になっていて、正面から撮影すると光の反射で画面が真っ白になってしまうため、やむを得ない措置です…。
始めにレオナルドがミラノの教会から依頼を受けて描いたのは、
ルーブル美術館版でした。しかし、教会から伝統に則った事細かいディテールの注文があったにも関わらず、レオナルドは聖母子や幼子の姿の洗礼者ヨハネの頭上の光輪やヨハネの十字形の杖といったリアリティの無いものを描きませんでした。そのことによって注文主たる教会は受け取りを拒否、更に支払額の問題も加わって、何と20年にも及ぶ裁判沙汰となるのです。
このバージョンの魅力は、何と言ってもレオナルド特有の艶めかしくすらある登場人物たちの眼差しと、
同じく登場人物たちの手の表情です。幼子イエス・キリストに合掌する洗礼者ヨハネ、そのヨハネに祝福を与えるイエス、意味ありげにこちらを見つめながらヨハネを指差す天使、そしてそれらを包み込むような聖母マリアの左手…これらの交錯する手と手が、この一瞬の場面に程よいリズムと緊迫感を与えています。
そして、前作の裁判の結審後に改めて制作されたのが
ロンドン・ナショナル・ギャラリー版です。描き直す気の全くなかったレオナルドは、何と係争中にルーブル美術館版の絵を売却してしまいます。そして新たにこのバージョンが制作され、頭上の光輪といったディテールもほぼ注文主の意図通りとなりました。ただ、この絵の制作期レオナルドはミラノには定住していなかったため共同制作者であるアンブロージョに殆どの部分を任せて、レオナルド自身はミラノに通いながら時折筆を入れていたようです。なので、正直こちらのバージョンからは、いわゆるレオナルドらしさがあまり感じられません。
その隣には
これまたウフィツィ美術館所蔵の名品である『東方三博士の礼拝』がありました。
この絵は1481年にサン・ドナート・ア・スコペート修道院からの発注で制作が開始され、下絵から彩色の途中まで描きこまれていました。しかし、主題の解釈、或いは例によって支払い方法かで揉めて制作が中断されてしまい、そのまま放置されて完成を見ることはありませんでした。
困った修道院はその後、サンドロ・ボッティチェリの弟子で、ボッティチェリの師匠フィリッポ・リッピの息子であるフィリッピーノ・リッピに制作を依頼、無事に納品されました。
この絵も半分以上が下描き状態のまま放置されていて、全体的に黄色っぽくなってしまっています。その退色部分を科学的に解析し、フィリッピーノ・リッピが完成させた補填作を参考にして彩色を施したのが上の写真です。
この絵も
横に人が立つと、その大きさがよく分かります。図鑑に243✕246cmなどと数字だけで書かれていてもよく分かりませんが、こうして実物大を見せられると圧倒されます。
ところで池上教授の解説によると、この絵には興味深い特徴があります。
先ず、三博士がイエス・キリストの誕生した場所に導かれたというベツレヘムの星が何処にも描かれていません。しかし、この主題の絵にベツレヘムの星が描かれないということはありません(因みに描き直しであるフィリッピーノ・リッピ版には、しっかりと輝く星が描かれています)。
いくらリアリストのレオナルドとは言え、カトリック教徒としてそこまで省略してしまうというのもなかなか大胆ではあります。では一体、この絵のベツレヘムの星は何処にいってしまったのか…
実はよく見ると、後ろの階段のところにいる人物の何人かが額に手を当てて、眩しそうに空を見上げています。つまり、ベツレヘムの星はこの画面の遥か上で輝いていることになるというのです。
言われてみれば、誕生したイエス・キリストの頭上にベツレヘムの星が輝いているわけですから、この画面上に見えていたら星とイエスの場所が大幅にズレてしまって不自然なわけです。こうしたことも、リアリストなレオナルドの一面を表しているのでしょう(もっとも、そういうところで注文主と揉めたのかも知れませんが…)。
また、この場所が『東方』であることを表すため、レオナルドはある動物を描き込みました。通常の『東方三博士の礼拝』には東方感を出すために孔雀が描かれることが多いのですが、さて、レオナルドが描いたのは…
何と『象』!
赤外線写真による解析の結果、下絵の右上の山のところに象の姿が発見されたとのことで、この復元画に象の姿が再現されました。スマホのカメラではどうしても撮れなかったので諦めてしまったのですが、山の下に確かに象の姿がありました。
ただ、さしものリアリストたるレオナルドも実際に象を見たことが無かったようで、出入りの商人などから姿かたちのことや、世界最大の陸上動物だというエッセンス的な話を総合して象を描きました。なので画面には、後ろの山とほぼ同じ大きさの縮尺の象(!)がハッキリと描かれています。
さて、その横の窓の上には
名作『最後の晩餐』の復元画像が投影されていました。
この『最後の晩餐』はいくつもの不運な出来事をかいくぐってきました。
この頃の壁画と言えば、例えばシスティーナ礼拝堂の『最後の審判』に代表されるように、漆喰を塗った壁に漆喰が乾かないうちに絵を描いて絵の具を定着させるフレスコ画が一般的でした。漆喰が乾くまでの時間との勝負であるこの技法には、何よりも速筆性が求められます。
ところがレオナルドは普段から致命的なまでに遅筆な画家でしたから、速さを要求されるフレスコ画は向いていません。なので、漆喰壁に通常板絵に用いる油彩とテンペラ画(油ではなく卵の黄身で絵の具を溶いて描く絵画技法)を採用するしかありませんでした。
また、制作過程を側で見ていた人物の手記によれば、制作時のレオナルドは現場では腕組みをしたまま壁を下から見上げてしばらく睨みつけ、突然何かをひらめいたかのように絵筆をもって足場を駆け上がると、ほんの少し絵を描いて足場を降り、その補筆箇所を下から眺めて満足すると、その日はそのまま家に帰ってしまった…といいますから、とんでもなく遅々として制作が進まなかったであろうことが窺えます。
しかも、壁画の制作に全く不向きな技法で描かれたこの絵は、制作直後から早くも絵の具の剥離が進んでいきました。しかも描かれた場所がサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院の食堂(じきどう)だったため、食堂の裏手にある厨房からの蒸気の湿気によって黒カビに覆われてしまうという惨状を招きました(絵の具を溶くために卵の黄身を使っていたこともいけなかったかも知れません)。また、厨房からものを運びやすくしようと出入り口の間口と高さを広げるために、後世よりによってキリストの足が描かれた壁を削ってしまったのです。
更に、ナポレオンによってミラノが占領されていた時代、この食堂は厩舎として使われることになりました。その時、当直の兵士たちが暇つぶしに、何と聖人たちの目を的にして槍投げ遊びをしていたというのです。いつの時代も、どこの国でも同じですが、下層の兵士にはロクなのがいません
更に更に、第二次世界大戦ではアメリカの爆撃機が投下した爆弾が壁画からわずか数メートルのところに着弾し、壁画のある壁を残して全壊しました。本当に、末端の兵士にはロクなのがいません。
そんなわけで、この壁画が…と言うかこの壁が残っていることそのものが最早奇跡以外の何物でもないのですが、1979年から修復作業が開始され、修復を終えたのは何と20後の1999年のことでした。それでも壁画は今もなおかなりの部分が剥落した痛々しい姿を晒しています。
現地でこの絵を観賞するためには、何人か毎に壁画のある薄暗い部屋に案内されて、一定時間鑑賞すると「はい次〜」と係員に出されてしまいます。しかしここでは、残された模写や現物のデータに基づいた最新の科学による復元画を思う存分堪能することが出来るのです。時折、神秘的な音楽と共に原画の中の聖人たちがモゾモゾと動き出すというアニメーション的趣向が凝らされていますが、それは学生たちによる御愛嬌ということで…。
最後に登場するのは、レオナルドのスケッチに基づいた再現彫刻です。その名も
『スフォルツァ騎馬像』です。
レオナルドがミラノで取り組んだ中でも史上最大のものが、君主ルドヴィコ・スフォルツァの父フランチェスコ・スフォルツァの姿を古代ローマの凱旋将軍よろしくブロンズ製の巨大騎馬像を計画したものでした。君主ルドヴィコとレオナルドの野心は一致して計画はどんどんと肥大化していき、遂にはレオナルドの師匠ヴェロッキオが制作したヴェネツィアのコッレオーニ騎馬像を凌ぐ規模で計画されるに至りました。
しかし…
原寸大の塑像模型を作ってお披露目し、70トンもの青銅を準備して、後は鋳造にとりかかるばかり…となったところでフランスが越境してミラノに侵入。折角集めた青銅は全て大砲鋳造のために軍事転用され、巨大模型も破壊されてしまいました。
始めにレオナルドがこの像を制作するにあたっては、この再現像のように馬が両前脚を上げていななくポーズを考えました。ところが全重量を後脚2本で支えるのは困難とみて、馬が3つの脚で接地する、ある意味伝統的なポーズでの準備を始めていました。
しかし、晩年にフランスから『トリヴルツィオ騎馬像』の制作をを依頼された時に、レオナルドは又しても二脚接地を挑戦しています。結局はこちらも計画倒れに終わってしまいましたが、レオナルドはやはり、それまで誰もやったことがなかったことがやりたかったのではないでしょうか。
そうした意志を尊重して、このブロンズ像も二脚接地の形で制作されました。ただ製作担当者の話によると、この大きさ〜120✕50✕107cm〜よりも大きく作ると、このサイズでも後脚2本で全重量を支えられないのだそうで、どれだけ二脚接地像というものの制作が大変かということが偲ばれました。
はからずも生解説をして頂けたことによって、よりレオナルドの世界を深く堪能することができました。
この展覧会は明日26日まで、代官山ヒルサイドテラスで開催されています。何と入場無料ですので、興味のある方はこの貴重な機会をお見逃しなく。