共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はモーツァルト《2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調》初演の日〜キース・ジャレット&チック・コリアによる夢の共演

2024年11月23日 17時17分17秒 | 音楽
今日は、神様に今年の実りを感謝する新嘗祭です。決して『勤労感謝の日』などという、わけのわからない祝日ではありません。

ところで、今日は新嘗祭とは別の話をしようと思います。今日11月23日は、モーツァルトの《2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調》が初演された日です。

《2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365 (316a) 》は、



モーツァルトが作曲した2台のピアノを独奏楽器とした協奏曲で、通し番号を付けて『ピアノ協奏曲第10番』とも呼ばれています。

かつてこの作品は、1779年に作曲されたと考えられていました。しかし近年の研究によって、第1楽章と第2楽章はモーツァルトがおよそ1775年5月から1777年1月の間に用いていた五線紙に書かれていることから、1775年から1777年にかけてザルツブルクで作曲されたとされていて、協奏曲自体もこの時期に属すると見られています。

モーツァルトは1781年に、ウィーンにいる自分に宛てて父レオポルトからこの協奏曲のコピーを送ってもらっていて、同じ年の11月23日にアウエルンハンマー家での私的な演奏会で、弟子でありパトロンでもあったヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー(《2台のピアノのためのソナタニ長調》の初演者)と共演しています。更に翌年の5月26日には、アウガルテンでの公開演奏でも演奏しています。

さて、そんな《2台のピアノのための協奏曲》について調べていたら、とんでもない動画が残っていました。なんとジャズピアニストのキース・ジャレットとチック・コリアが田中良和指揮による新日本フィルハーモニー交響楽団と、しかも日本で共演しているというものです。



キース・ジャレット(1945〜)は、クラシック音楽との触れあいは珍しいものではなく、何と言っても有名なのはバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を全曲録音していることです。他にもヘンデルのリコーダー・ソナタをミカラ・ペトリと録音をしたり、ショスタコーヴィチの《24の前奏曲とフーガ 作品87》を録音したりしています。

勿論モーツァルトのピアノ協奏曲の音源もあり、1994年11月と1995年1月にシュトゥットガルトで

《ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467》
《ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488》
《ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595》

を録音しています。

一方、



チック・コリア(1941〜2021)はキース・ジャレットに比べるとクラシック音楽にはより遠い存在であるような印象を持ってしまいますが、日本での演奏会で初めてモーツァルトを演奏したわけではなく、実は1983年6月にアムステルダムで《2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365》を録音していました。しかも相手は



20世紀を代表するピアニストの一人であるフリードリヒ・グルダ(1930〜2000)で、



古楽の雄としても知られているニコラウス・アーノンクール(1929〜2016)指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との共演という、よくもまぁこれだけ意外な取り合わせを実現したものだという録音です。

キース・ジャレットとチック・コリアがどういった経緯で、しかも日本で共演することになったのかは分かりません。それでも、この場に居合わせた人たちは凄まじく幸せ者だということは確かです。

そんなわけで、今日はモーツァルトの《2台のピアノのための協奏曲(ピアノ協奏曲第10番) 変ホ長調 K.365(316a)》をお聴きいただきたいと思います。キース・ジャレットとチック・コリアという2人のスーパージャズピアニストの共演による、この上なくブリリアントなモーツァルトをお楽しみください(リハーサルシーンもあります)。







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3ステップで考えよう♪

2024年11月22日 17時00分30秒 | 日記
今日も小学校支援級では様々なことがありました。その中でも一番の騒ぎは、何と帰る間際に起こりました。

今日は金曜日なので、様々なものを持ち帰ることになっています。一番は一週間使い続けた上履きなのですが、今日は体育の授業もあったので



体操服も持ち帰ることになっていました。

ところが、一人の子が何やらゴソゴソしながら半べそかいていたので何かと思ったら、ランドセルの中に体操服を入れようとしたものの、教科書なども入っていて上手くいっていない様子でした。

担任は手で持つか何かして持ち帰るように言っていましたが、その子はどうしてもそれがイヤで、何とか強引にランドセルに詰め込もうと半べそかきながら悪戦苦闘していました。そして、どうにも入らないとなると

「もうヤだ!置いていく!」

と、体操服の入った巾着を床に投げつけたのです。

担任は注意していましたが、ここで普段子どもたちを叱り飛ばしている先生(私)が動きました。ランドセルの中の状況を覗いて、どうにかできそうだな…と判断したのです。

私:その体操服、きちんと畳んでみましょうか。

子:ヤだ!絶対に入らない!

私:前にも言いましたよね

①『絶対』は無いから可能性を潰さない
②とにかくやるだけやってみる
③それでダメならまた考える

この3ステップで考えてみましょう。

子:……

とりあえず体操服を巾着からひっぱり出してみると、案の定クシャクシャに丸めて突っ込まれていました。なので一度袋から体操服を取り出して、なるべく薄くなるように畳み直して入れてみると…

子:あ!入った!

私:ね?『絶対』は無かったでしょ?

ということで、無事に体操服は持ち帰られていきました。

子どもにありがちなことですが、やりもしないうちから投げ出してしまうことが多々あります。特に支援級の子たちはその傾向が顕著なのですが、一度落ち着かせてから先程の3ステップをさせてみると、意外とできてしまったりするものなのです。

『可能性は潰さない』

言うのは簡単ですが、この言葉の大切さを改めて実感した出来事でした。
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びっくりたまげた松ぼっくり( ;゚д゚)!

2024年11月21日 17時00分00秒 | 工作
今日は勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室の日でした。ところが、低学年が校外学習という名の遠足に行ってしまった影響で、参加人数が過去最低を更新してしまう状況となりました。

なので、今日は数少ない子どもたちの宿題を見たりしただけで終わってしまいました。その分、次回以降のミーティングに時間を割くことになりました。

本格的なクリスマスシーズンを前に、こちらの放課後子ども教室ではクリスマス関連の工作をさせることとなりました。その中で松ぼっくりを使ったクリスマスツリーを作らせるアイデアがあり、提案した先生がサンプルとして皆に配ったのが



何とも巨大な松ぼっくりでした(; ゚д゚)!

写真だと分かりづらいですが、この1個で高さが10cmくらいはあります。恐らく外来種の松のものなのでしょうが、ここまで大きければなかなか立派なクリスマスツリーが作れそうです。

実際には予めこれにスプレーで緑色に着色したものを子どもたちに渡して、ビーズやモールをグルーガンで留めて飾り付けさせる予定です。さて、子どもたちは喜んでくれるでしょうか。

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凍える体育授業と『りんご🍎パイ』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年11月20日 20時55分10秒 | カフェ
今日はこの冬一番の寒さとなりました。さすがに小学校でも石油ストーブの使用が開始され、子どもたちはストーブの前で団子になっていました。

それでも体育の授業の前には体操着に着替えなければならず、ブツクサ言う子どもたちをストーブの前から無情に引っぺがして着替えさせて体育館に連れて行きました。子どもたちは身体を動かしていればそれなりに暖まってくるのでしょうが、一緒になって運動するわけでもなく、ただ体育館の片隅で様子を見守っているこちらの寒さは推し量ってもらえるわけもありません…。

そんな凍えるような小学校勤務を終えてから、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は



周年記念メニューの『りんご🍎パイ』をオーダーしました。周年記念メニューとして練られたものだけに、美味しさもひとしおです。

明日はまた気温が上昇するようです。折角下がったのならそのままの寒さでいてくれればいいのに…と思ってしまいますが、世間の反感を買いそうなので静かにしておきます…。

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いよいよ本番!紙皿クリスマスリース

2024年11月19日 17時17分17秒 | 工作
今日の神奈川県は、ものすごく寒くなりました。つい二〜三日前まで半袖でスーダラ過ごしていたとは思えないほどで、風邪の危機感すら感じていました。

さて、今日は勤務先の小学校の放課後子ども教室の日でした。昨日まで黙々と仕込んでいた



紙皿のクリスマスリースを、いよいよ子どもたちにお披露目することになったのです。

私は支援級の学習支援についていて様子を伺うことはできなかったのですが、後で聞いた話では、子どもたちは一様に喜んでくれていたようでした。参加人数が思ったより少なかったのが残念ではありますが、それでも報われた思いです。

明日は、更に冷えこむ予報が出されています。気が抜けたところで体調を崩したりしないよう、十分に気をつけようと思います。

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紙皿リース準備完了!

2024年11月18日 17時50分17秒 | 工作
昨日の半袖日和から一転して、今日は冷えこみました。しかも朝より昼過ぎにかけてどんどん気温が下がっていき、日が落ちてからはさすがに暖房をつけないといられないくらいになりました。

そんな中、今日は明日の放課後子ども教室の工作で使う



折り紙ベルの製作にとりかかっていました。裏側を糊付けしたベルに



5mm幅の両面テープを貼り付けたものを



大量生産しました。

これで、全ての材料が揃いました。あとは



くり抜いた紙皿、リボン、ベル、プレゼントボックス✕2、星のシールを



小分けに個装してセットし、学校に持っていくだけです。く

私は放課後子ども教室の時間には個別学習支援に入っているので、コーディネーターや学習アドバイザーの皆さんに材料と組み立て方を託すしかありません。はたして、子どもたちは楽しんでくれるでしょうか…。

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今日はチャイコフスキー《スラヴ行進曲》初演の日〜時勢に負けず演奏してほしい名曲

2024年11月17日 15時15分15秒 | 音楽
今日は、11月とは思えないほど暖かくなりました。用心のためにとっておいた半袖が活躍するとは思いもしませんでしたが、立冬過ぎだと思うと何だかゲンナリさせられます。

ところで。今日11月17日は《スラヴ行進曲》が初演された日です。《スラヴ行進曲 変ロ短調 作品31》は、



ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840〜1893)が作曲した演奏会用行進曲です。

1876年6月、オスマン帝国軍によってセルビアのスラヴ人キリスト教徒が多数殺害されました。この事件に際して多くのロシア人は殺害されたスラヴ人たちに同胞としての同情を感じ、セルビアへは義勇兵が援軍として赴きました。

モスクワ音楽院初代院長であり、チャイコフスキーの親しい友人でもあったニコライ・ルビンシテイン(1835〜1881)はチャイコフスキーにこの事件の犠牲者たちの追悼演奏会のための作品を依頼し、愛国心に駆られたチャイコフスキーは《セルビア=ロシア行進曲》と題された作品をわずか5日間で作曲しました。この作品はモスクワで初演された後に改稿され、現在の《スラヴ行進曲》の原型となりました。

葬送行進曲のような重々しい低音に始まり、セルビア民謡『太陽は明るく輝かず』の持つ哀調溢れる旋律がヴィオラとファゴットで悲しげに奏でられるところから曲が始まります。中間部に入ると、同じくセルビア民謡の『懐かしいセルビアの戸口』からの快活なメロディ、続いて同じくセルビア民謡の『セルビア人は敵の銃を恐れない』からの勇壮なメロディが繰り出されていきます。

その後、曲の冒頭で登場した主題が情熱的に再現されます。終盤に入ってからは帝政ロシア国歌『神よ、皇帝を護りたまえ』が力強く歌い上げられ、勝利を暗示するかのような祝祭的な響きに包まれながら曲が締めくくられます。

《スラヴ行進曲》は1876年11月5日、グレゴリオ暦では11月17日にモスクワで開催された『ロシア音楽協会第1回交響楽演奏会』で、ルビンシテインの指揮で初演されました。これにはチャイコフスキーも出席し、後に

「先週の土曜日、ここでセルビア・ロシア行進曲(後のスラヴ行進曲)が初めて演奏された。それは愛国的熱狂の完全な嵐を巻き起こした。」

と妹に書き送っています。

またこの演奏会の様子を書き留めた文章が保存されていて、それには

「行進曲の演奏のあと、場内に起こった人々の叫び声は筆舌に尽くしがたい。全聴衆は立ち上がり、ブラボーの叫びの中にウラー(万歳)の叫びが入り混じった。」

「行進曲は再演され、再び嵐が巻き起こった。これは1876年の最も感動的瞬間のひとつであり、場内では多くの人々が泣いた。」

と記されています。

この作品には帝政ロシア国歌『神よ、皇帝を護(まも)りたまえ』が引用されていることから、旧ソ連時代にはオリジナルでの演奏が禁止されていました。ソ連崩壊後はロシアでもオリジナル通りに演奏されるようになりましたが、ロシアによるウクライナ侵攻後は

「ロシアを賛美する音楽は如何なものか」

という一部の意見により、今度は日本でロシア国歌のメロディを含む《スラヴ行進曲》と《大序曲『1812年』》が自主規制的にプログラムから外されています。

時勢を思えば致し方ないのかも知れませんが、あえて言わせていただくなら

『あくまでもチャイコフスキーの芸術作品なのだから、四の五の言わずやりたければやればいい』

と個人的には思っています。何事か起こる度に芸術作品が真っ先に槍玉に挙げられ忖度の対象となるのは、絶対に間違っています。

そんなわけで、今日はチャイコフスキーの《スラヴ行進曲》をお聴きいただきたいと思います。アレクサンドル・スラドコフスキー指揮、タタールスタン国立管弦楽団の演奏でお楽しみください。


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今年も登場!巨大クリスマスツリー

2024年11月16日 18時38分48秒 | 日記
今日はそこまで冷えこむこともなく、わりと過ごしやすい一日となりました。そんな中、私は用事があって小田急線相模大野駅まで出かけていました。

毎年この時期になると、相模大野駅のステーションスクエアの自由通路に大きなクリスマスツリーがお目見えするのですが、



今年も登場していました。ベツレヘムの星は建物の三階の高さに相当していて、なかなかの大きさを誇っています。

どうせならこれくらいの大きさでやってもらわないと、イルミネーションの感じが出ません。そこへいくと厚木市のものはあまりにもチャチいので、写真を撮る気にもなれません…。

用事もそこそこに、さっさと帰宅して折り紙作りに没頭しました。何しろ50人分作らなければならないので、先生頑張ります!

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練習しなさい!!

2024年11月15日 17時00分00秒 | 音楽
小田原 今日は中学年の音楽の授業がありました。そこで



二部合唱の《もみじ》をやったのですが、今日も個人的にストレスが溜まってしまう出来事がありました。

今回は楽譜の下段のハモリパートの練習をしたのですが、ここでも担当の教師がやらかしました。始めは一小節ずれでカノンになっているからまだよかったのですが、二段目の終わりで帳尻を合わせるところで、ピアノで楽譜をなぞっている教師がそこのリズムを何回も間違えまくっていたのです。

できるものならば、許されるのなら、

「どけ!」

と言ってピアノを弾いてやろうかとも思ったりしました。しかし、実際にそれをやつてしまったら担当教師の立場が無くなぅてしまうので、ひたすら心頭滅却していました。

仮にも子どもたちに物事を教えようとするならば、間違ったことを教えてはならないと思うのです。それなのに、散々間違ってピアノを弾いた挙げ句に子どもたちに謝りもしないというのは如何なものなのでしょうか。

こうした『ええ加減な音楽教育』を見ていると、日本の音楽の将来が暗澹たるものにしか感じられません。教師たちには苦手なら苦手なりに、せめて事前に練習くらいはしておいてもらいたいものです。

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今年も出ました!自販機みかん

2024年11月14日 17時00分00秒 | 日記
今日は、勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室の日でした。昨日の音楽教室の帰りにいろいろと考えたのですが、今回は子どもたちをチームに別けてちょっとした頭の体操的なパズルをやらせてみましたが、子どもたちは結構本気になって解いていました。

教室からの帰り道、今年もとある場所に



コインロッカー式みかんの自販機が登場していました。何しろ一袋100円だったので、



早速購入してみました。

小田原で栽培されているのは主に温州みかんなので、甘さと酸味のバランスがちょうどいい感じです。昨今の甘さが際立つみかんより、私は温州みかんの方が断然好みです。

明日は一日曇天が続き、気温もあまり上がらないようです。風邪をひいてしまわないように、美味しいみかんをいただいてビタミン補給しようと思います。

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授業変更の嵐と『キャラメルナッツパフェ』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年11月13日 18時30分18秒 | カフェ
今日は一日大変な日でした。

中学年の通常級の担任がひとり発熱で欠勤したのですが、そのことによって授業担当や内容がかなりシッチャカメッチャカになってしまいました。専科の教師や教頭まで出てきて入れ代わり立ち代わり授業をしていたのですが、子どもたちの方がなかなか大変そうでした。

支援級の子どもたちはそうしたイレギュラーに敏感に反応してしまうため、尚更大変でした。不機嫌になる子やヤル気が失せて脱力する子など様々でしたが、私はそんなものに構わず、いつものように叱り飛ばして勉強させていました。

そんな小学校勤務を終えてから、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は期間限定メニューのひとつ



『キャラメルナッツパフェ』をオーダーしました。

カフェオレムースの上にアイスクリームや生クリームが乗せられ、キャラメリゼした様々なナッツやキャラメルソース、キャラメルのジュレがトッピングされています。サクサクに焼き上げられたワッフルスティックやたまごボーロが、食感のアクセントになっています。

ベースがカフェオレのムースなこともあってか、コーヒーとの相性も絶妙です。周年記念メニューで力が入っていることもあると思いますが、やはりこだわりのカフェのスイーツは一味違います。

明日は2週間ぶりに、勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室のある日です。今回は私が企画担当になっているのですが、何をやろうか考えながら帰宅しようと思います…。

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イライラさせないで!(-"-;)

2024年11月12日 17時35分58秒 | 音楽
今日、ものすごくイライラさせられることがありました。高学年の音楽の時間に《君をのせて》をとりあげたのですが、担当の先生が何度やっても

「1、2、3、ハイッ!」

とタクトをとっていたのです。

《君をのせて》の冒頭は



このようになっていて、『あの地平線〜♪』はアウフタクト、つまり弱起でスタートしています。なので、タクトを振る時には

「1、2、3、あの地平線〜♪」

若しくは

「1、2、ハイッ、あの地平線〜♪」

とすべきなのですが、その先生はずーっと

「1、2、3、ハイッ、あの地平線〜♪」

を貫き通したので、子どもたちが妙ちきりんな5拍子につんのめってしまうのです。

私はあくまでも支援級の子たちの学習支援に入っている身なので、授業内容にあれこれ口を出す権限はありません。それでも

「…ダァァッ!」


と叫び出さなかった私を、誰かに褒めてもらいたいくらいです(涙)。

本当に、日本の音楽教育は酷過ぎます。あれでは、音楽嫌いを大量生産しているようなものです。

昭和時代の小学校の先生方は、間借りなりにもピアノが弾けていました。令和では弾ける先生と弾けない先生がハッキリと分かれていて、弾けない先生に当たってしまった子どもたちは、言葉を選ばずに言わせてもらえば不幸です。

こういう事象に出会う度に、文部科学省に火をつけて燃やしてやろうかと本気で思わされます。さもなくば、今一度音楽教育に関する認識を改めてほしいものです。
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大量生産!赤いリボン

2024年11月11日 16時50分16秒 | 工作
朝のうちに降っていた雨も徐々に止んで、昼過ぎからは段々と晴れてきました。そんななか、今日はほぼ一日自宅にこもっていました。

今日は、我が家でひたすら



折り紙でリボンを作っていました。これは



放課後子ども教室で子どもたちに作らせる紙皿リースのパーツです。

赤い折り紙を総動員して、今日一日使って



大量生産しました。実際には50個ほど作りましたから、これで足りなくなることはないでしょう。

これに先日の



プレゼントボックスやベルを合わせてセットを作り、子どもたちに渡したらすぐに取り掛かれるようにします。先生、もうちょっと頑張ります(;^ω^)。

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ベルリンの壁崩壊の日から35年〜バレンボイムによる《第九》

2024年11月10日 17時25分50秒 | 音楽
昨日に引き続き、今日も朝から冷えこむ一日となりました。夏の半袖は、いよいよお役御免となりそうです。

ところで、今日11月10日はドイツのベルリンの壁が崩壊した日です。今年は壁崩壊から35年目という、節目の年となります。

1961年8月13日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国境警備隊がベルリンの舗装道路を壊して石でバリケードを作り、町を横切る有刺鉄線を張りました。そして西ベルリンの周りを取り囲むように、人が乗り越えることのできない3メートルもの高さの壁を作りました。

かつて旧東ドイツからは毎日2000人程度の国民が国を去っていて、政府高官たちは自国の存在が脅かされていると感じていました。これは1949年に東ドイツが建国されてからずっと続いており、全体では約200万人にものぼっていました。

東ドイツ政府高官は、

「国民が国を去るようでは社会主義国家は作れない」

と考えました。そして国民が自主的に国に残らないのであれば、壁を作って強制的に留まるようにしなければならないと考えたのです。

ベルリンの壁を作る計画は、東ドイツ政府の国家機密でした。旧東ドイツ社会主義統一党(SED)幹部の命令を受けて、人民警察官と国家人民軍兵士の監視の下、土木工事作業員によって作られました。

こうして、ベルリンの壁が一方的に建造され、ベルリンの西側部分は東ドイツと東ベルリンから分離されました。西側の人々を入国させないためではなく、東ドイツの人々が逃げられないようにするためにベルリンの壁が作られたのです。

そんなベルリンの壁の崩壊を招いたのは、実は旧東ドイツ政府高官の『失言』が原因でした。

1989年11月9日、



社会主義統一党中央委員会のギュンター・シャボウスキー(1929〜2015)政治局員は記者会見の際、さして重要でもない様子で

「ドイツ民主共和国は、ただちに出入国を自由化する」

と述べました。すると、その様子を放送で知った数千人の東ドイツ市民が、すぐさま国境検問所に押し寄せたのです。

それまでベルリンの壁は、『東西冷戦』『越えられない物』『変えられない物』の象徴でした。それが数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーやつるはし、ショベルカーが持ち出され、ベルリン市民はそれらで自主的に壁の破壊を始めたのです。

壁の破壊は部分的ではあったものの、秩序だったものではなく方々で勝手に行われていきました。こうして、1961年8月13日に建設が始まったベルリンの壁は、一部ではあるものの、建設開始から28年後の1989年11月10日についに破壊されたのでした。

元々ベルリンの壁は東ドイツ側によって建設された東ドイツ側の『所有物』であり、東側からは壁を壊す許可は一切出されていませんでした(むしろ11日には倒された壁を元の通り立て戻す作業を国境警備隊が行っていました)。しかし、数日後からは東ドイツ側によって重機などを用いて正式に壁の撤去作業が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになりましたが、速やかに全て撤去されたわけではなく、正式に解体作業が始まったのは翌年1990年6月13日からのことでした。

そしてこの年の暮れに、壁崩壊を記念したコンサートが開かれました。これはベルリンの壁が崩壊した直後の1989年12月25日に、旧東ベルリンのシャウシュピールハウスで行われた歴史的なコンサートでした。

指揮は、この4ヶ月前に他界した『帝王』ヘルベルト・フォン・カラヤンに代わって、



レナード・バーンスタイン(1918〜1990)が務めました。演奏は、管弦楽がバイエルン放送交響楽団、ドレスデン国立管弦楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ロンドン交響楽団、レニングラード・キーロフ歌劇場管弦楽団、パリ管弦楽団という、東西ドイツ、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連(当時)の6ヶ国からなる混成オーケストラを臨時編成したものでした。

ソリストは、ジューン・アンダーソン(ソプラノ)、サラ・ウォーカー(メゾ・ソプラノ)、クラウス・ケーニヒ(テノール)、ヤン・ヘンドリク・ロータリング(バス)が務め、合唱はバイエルン放送合唱団、ベルリン放送合唱団、ドレスデン・フィルハーモニー児童合唱団で結成された特別なものでした。そして第4楽章では、通常では「フロイデ(Freude)=歓喜」と歌われるところを、「フライハイト(Freiheit)=自由」に変更して歌われました。

このコンサートはライブ録音され、CDも発売されました。中には『ベルリンの壁の欠片』付きのプレミアCDもあり、当時大いに話題になったものです。

そのコンサートの動画は貼れませんでしたので、今日はベルリンの壁崩壊25周年記念コンサートから、ダニエル・バレンボイム指揮、ベルリン・シュターツカペレによる演奏によるベートーヴェンの《交響曲第9番ニ短調》の抜粋動画を御覧いただきたいと思います。壁崩壊から四半世紀となる2014年11月9日に、記念行事として行われたものです。

この時、かつてのベルリンの壁沿いの一部に灯りを点けた白い風船を配置し、夜に一斉に空へと風船を飛ばす『リヒトグレンツェ(光の境界 Lichtgrenze)』というイベントが行われました。その様子も、演奏と合わせてお楽しみください。





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今日はカール・シュターミッツの祥月命日〜ヴィオラ弾きは避けて通れない《ヴィオラ協奏曲 ニ長調》

2024年11月09日 18時18分18秒 | 音楽
今日も神奈川県は、気持ちのいい晴天となりました。いかにも秋晴れ…なのですが、立冬を過ぎていることを思うとちょっと違う気がしてしまいます…。

ところで、今日11月9日はカール・シュターミッツの祥月命日です。

『誰…?』

と思われるかも知れませんが、



カール・シュターミッツ(1745〜1801)はドイツのチェコ系作曲家で、交響曲と協奏曲をそれぞれ50ほど作曲したほか、おびただしい数の室内楽も残しています。

マンハイムのプファルツ・バイエルン選帝公カール・テオドール(1724〜1799)の宮廷で首席ヴァイオリン奏者として活躍していた高名なヴァイオリニストのヨハン・シュターミッツ(1717〜1757)の子として生まれたカール・シュターミッツは、年代的にはハイドンの後輩、モーツァルトの先輩格にあたる作曲家で、モーツァルトに多大な影響を与えたといわれています。父ヨハンも作曲家で、息子カールに教育を施して親子で音楽史に名を残した経歴はモーツァルト親子とも共通しています。

カール・シュターミッツは父ヨハンにヴァイオリンと作曲を学び、父が没したあとの1762年、宮廷楽団の第二ヴァイオリン奏者となりました。作曲にも手を染めましたが保守的な選帝公の趣味に合わず、1770年にマンハイムを去ってパリへ赴きました。

パリではルイ・ド・ノアイユ公の宮廷作曲家兼指揮者に収まり、公開演奏会コンセール・スピリチュエルにも登場して、ヴァイオリン及びヴィオラ奏者として名を馳せました。ドイツなど国外へも演奏旅行を行いながら数々の作品を出版し、『ゴセックのガヴォット』で有名なフランソワ=ジョゼフ・ゴセック(1734〜1829年)らとも親しく交わりました。

1777年にロンドンに移ってからは、バッハの末子ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜1782)と仕事をしたり、演奏旅行をしたりしていました。しかし、ロンドンでは安定した地位を得ることはなかったようです。

カール・シュターミッツはロンドンを振り出しにハーグをはじめとしたドイツ各地を転々とし、一方でプロイセン王を初めとする貴族に作品を売りさばいて生計を立てていました。オランダではオラニエ公ウィレム5世(1748〜1806)の宮廷に使えた後、1794年にはドイツ・イェーナ大学の学長と音楽教授を務めましたが、経済的には恵まれぬまま世を去りました(享年56)。

そんなカール・シュターミッツの祥月命日である今日は《ヴィオラ協奏曲 ニ長調》をご紹介しようと思います。

この曲は古典派の時代に作曲されたヴィオラのための貴重なオリジナル作品で、プロオーケストラのヴィオラ奏者オーディションでも何曲かある課題曲の中に必ず指定される曲なので、ヴィオラ弾きとしては避けて通れない作品です。ただ、通常のチューニングのヴィオラで演奏するにはあまりにも音域が高いところが多いので、一説には



より音域が広くニ長調に調弦されることの多いヴィオラ・ダモーレのための協奏曲ではないか…とも言われています。

第1楽章:アレグロ。

オペラの序曲のように、期待感を盛り上げるような序奏を持つ始まりです。そして、ヴィオラが登場するところは、まるで豊かなアルトの声を持つ貴婦人の登場のようです。因みに、オーケストラのオーディションの課題曲になるのは、ほぼこの第1楽章です。

第2楽章:アンダンテ・モデラート。

しみじみとした情感を持つ、親密な始まりの楽章です。ヴィオラが低い音で暗めの音色を聴かせながら、バックの弦楽が対照的な高音で鋭い対比を示します。

第3楽章:ロンド、アレグレット。

独奏ヴィオラで楽しげなロンドのテーマが始まると、ヴァイオリンパートが簡素に応えます。やがて終楽章らしく独奏ヴィオラが存分に活躍し、オーケストラがこれに華やかさを加える…といった展開で盛り上がって終わります。

そんなわけで、今日はカール・シュターミッツの《ヴィオラ協奏曲 ニ長調》をお聴きいただきたいと思います。ヴィオラ弾きにとって貴重な、古典派のオリジナル作品をお楽しみください。


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