共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

猫の日にロッシーニ(?)の《猫の二重唱》〜グルベローヴァ&カサロヴァによる名唱

2025年02月22日 17時00分30秒 | ネコ(=゚ω゚=)
今日の午前中、神奈川県では雪がチラつきました。あまり空けずに晴れてきましたが吹く風はかなり冷たく、向かい風に吹かれると身が縮こまりました。

ところで、今日2月22日は全国的に『猫の日』でございます。2が3つ並ぶことを『222=ニャンニャンニャン』と読ませて、猫を愛でようという日となっています。

紐解いてみると、実は猫の日が制定されたのは1987年のことだったのだそうです。今から38年も前に制定されていたようですが、私が個人的に認識したのは十数年前のことです。



私自身は猫を飼ったことはないのですが、私の知人宅ではかなり猫飼い率が高く、そこで愛でさせてもらっています。あとは、猫に関する音楽を聴いて過ごしたりもしています。

今回はそんな中から《猫の二重唱》をご紹介しようと思います。

《猫の二重唱』(Duetto buffo di due gatti)》はソプラノ二重唱とピアノ伴奏による曲で、歌曲コンサートのアンコール曲として上演されることの多い作品です。歌詞が猫の鳴き声(miau)をひたすら繰り返すだけであることからこの名があり、ソプラノ以外の声域(ソプラノとテノール、ソプラノとバスなど)で上演されることもあります。

《猫の二重唱》は



長くジョアキーノ・ロッシーニ(1792〜1868)の作品とされていましたが、実際にはロッシーニの歌劇《オテロ》の中の曲などを別人が組み合わせて編曲した作品です。2分ほどの短い曲で、全体は3つの部分からなっています。

前半のカヴァティーナ(Adagio、ニ短調 4⁄4拍子)
デンマークの作曲家クリストフ・エルンスト・フリードリヒ・ヴァイゼ(1774〜1842)の《猫のカヴァティーナ》による

中間部(Andantino、ニ短調 6⁄8拍子)

後半のカバレッタ(Allegretto、ヘ長調 4⁄4拍子)
ロッシーニの歌劇《オテロ》第2幕よりロドリーゴのアリア「Ah! come mai non senti」による

様々な歌手たちがこの《猫の二重唱》をとりあげ、録音も残してくれていますが、そんな中から今回は



不世出のコロラトゥーラ・ソプラノ、エディタ・グルベローヴァ(1946〜2021)と



ブルガリア出身のメゾ・ソプラノ、ヴェッセリーナ・カサロヴァ(1965〜)との共演でお聴きいただきたいと思います。因みにこの録音ではカサロヴァが雄猫、グルベローヴァが雌猫に扮していて、はじめは雄猫につれない態度をとっている雌猫が徐々に接近し、最後には仲良く唱和する…という設定なのだそうです。

そんなわけで、『猫の日』である今日はロッシーニ(?)の《猫の二重唱》をお聴きいただきたいと思います。エディタ・グルベローヴァとヴェッセリーナ・カサロヴァのデュエット、グルベローヴァの夫君であるフリードリヒ・ハイダー(1961〜)のピアノで、なんとも楽しい猫たちの音楽的やりとりをお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繰り返し繰り返し…

2025年02月21日 17時17分17秒 | 日記
今日も小田原の小学校支援級では、癇癪イザコザ喧嘩沙汰といった様々なことがありました。そんな中でも、私は今日も平気で子どもたちを叱り飛ばしていました。

支援級の子どもというのは、何かトラブルがあった時に

「自分は悪くない!」

ということを第一義において発言や行動をすることが常です。そして支援級の子が自分の苛立ち解消のために

「殺してやる!」
「死ね!」

などと喚き始めると、周りがとにかく鎮静化を早めようと宥めてすかして機嫌をとろうとします。

しかし、事態を客観視すれば支援級の子が加害者であることも少なくありません。そういう時に私は、徹底的に理詰めで支援級の子に接しています。

よく、いじめにあって不登校になる子の話がありますが、何故か往々にして不登校になるのは被害者であり、加害者は厳重注意くらいでのうのうと登校していたりします。すると世間は不登校児の方を腫れ物に触るように問題視する傾向がありますが、彼らだって不安要素さえ取り除かれれば学校に行きたいのですから、たとえ小中学校であっても謹慎させるべきはむしろ加害者のはずです。

先程も書きましたが、特に支援級児童は先ず自身の正当化から入ろうとしますから、彼らが加害者になった場合には

「支援級児童だろうと、ならぬものはならぬ!」

と繰り返し言わなければなりません。それをしなければ、いつまで経っても彼らが『支援級』という錦の御旗の下に被害者面する悪癖を取り除くことはできないのです。

今日もいろいろと激しい攻防戦がありました。具体的内容は伏せますが、それはもう文章にするのも憚られるようなことでしたので割愛させていただきます。

別に昭和時代の鉄拳教育を復活させろと言っているわけではありませんが、それでも大人が子どもたちに対して無駄な忖度をする必要はないはずです。なかなか賛同してはもらえませんが、これからも私はその点に関しては厳しく接していこうと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あの大事故を受けてか…

2025年02月20日 17時55分17秒 | 日記
今日は勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室の日でした。今日は子どもも大人も参加人数が少なく、特別なことがあまりできないまま終わってしまった感じでした。

後片付けを済ませて駅までの道を歩いていると、



あちこちで道路工事が行われていることに気づきました。工事の内容としては『ボックスカルバート工事』というもので、



長年使い込んだ水路を新しいものに交換するというものです。

先月埼玉県八潮市で発生した道路陥没事故を受けてか関係者が現場内外で盛んに声を掛け合っていて、端で聞いていても現場が緊迫していることが分かりました。勿論、この時期に日本各地で見られる予算使い切りのための工事と見ることもできますが、あのような大事故が発生したことはどこかで意識しなければならなくなっているのでしょう。

高度経済成長期に埋設された国内の主だった水道管は、60年前後の時が経過していて大変危険な状況にあるわけです。八潮市のような事態を回避するために各自治体で行われている公共工事では、より慎重に、かつ期日までに完成させるべく関係者各位が奮闘しておられます。

今我々にできることは、こうした公共工事が円滑に終わることを見守ること、そして未だ発見に至っていない八潮市の事故被害者が見つかることです。そんなことをしみじみと思いおながら、駅へと歩みを進めたのでありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大揉め支援級勤務と『コーヒーぜんざい』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2025年02月19日 21時00分20秒 | カフェ
昨日は穏やかに過ぎていった小学校支援級でしたが、そんな平和な時はそうそう長続きしないものです。今日はまた何悶着もあり、大騒ぎでした。

特に今日は支援級の子と通常級の子とが休み時間に些細なことで喧嘩を始めてしまい、それを見ていた別の子が私のところに報告してきました。私が駆けつけた時にはかなりの取っ組み合いが繰り広げられていたので、とりあえず怪我をしている二人を引き剥がして保健室に連行し、様子を確認することにしました。

当人たちや一部始終を見ていた周りの子たちの意見を総合すると、どっちもどっちな状況であることが分かりました。なので、保健室の先生と私とで

「話を聞くに、〇〇君も△△君もそれぞれにいけないところがあったようだね。」

という判断をした上で、言い分はともかく相手に怪我を負わせたことについてはお互いに謝らせました。

支援級の子たちは自身の価値観や正義感に、根拠のない自信をもっていることがあります。それにそぐわないことに関しては親の仇の如く糾弾し、時には暴力沙汰に発展することも珍しくありません。

そんな時、他の先生方は何とか『穏便に』済ませようとしてあの手この手で宥めすかすのですが、私は遠慮なく

「理由はどうあれ、ならぬものはなりませぬ!」

と叱り飛ばします。後でそのことで支援級主任から

「もう少し違う言い方で…」

と言われるのですが、

「貴方がたがそうやって散々忖度してきた結果が、この有様を招いているのではありませんか?!」

と私が返すと、そこからしばらく侃々諤々が続くので疲れます。

そんなことでいつもより退勤が遅くなってしまったので、いつもより遅い時間の電車にのって横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は無駄に疲れたので甘いものがいただきたくなったので、



『コーヒーぜんざい』をオーダーしました。冬に登場する美味しいぜんざいをいただいて、ひと心地つくことができました。

あれこれとある支援級ですが、最終的に解決するのは彼ら本人の心がけ次第です。なるべくそのサポートをするべく、また支援級勤務につこうと思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもたちからサプライズ!

2025年02月18日 17時17分17秒 | 日記
私事で大変恐縮ですが、本日を以てまたひとつ齢を重ねました。気づけば亡母の享年をとうに過ぎて未だに生かされていることに、個人的に感慨深く思っております。

さりとて、あくまでも今日は今日という一日なので、小学校で普通に過ごしていました。すると、休み時間に前年度担当していた低学年の子たちがやって来たのです。

「あれ?どうしたの?」

と言う私にその子たちは

「先生(私)、これプレゼント!」

と言って



こんな素敵なメッセージカードをくれました。昨年の誕生日に歌を歌ってもらったことがあったのですが、どうやらそれを覚えていたようで、今日のためにサプライズで用意してくれていたようでした。

あまりにも突然のことでただ驚いてしまったのですが、

「覚えててくれたの?!ありがとう!」

と言って頭を撫でてあげるのがやっとでした。実はマスクの下で涙腺が崩壊しそうになっていたことは、あの子たちには内緒です(涙)。

それにしても、しばらく見ていないうちに彼らも成長しました。一年生の時にはとんでもなくシッチャカメッチャカな平仮名を書いていて何度も直させていたのに、おそらく担任の字のなぞり書きとは言え、こんなにしっかりと読める平仮名が書けるようになったことに素直に感動したのです。

日々大変なことの多い小学校支援級勤務ですが、たまにこういうことがあると嬉しいものです。これからも彼らの人生の一助となるべく、引き続き自身の勤めを果たしていきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はプッチーニの歌劇《蝶々夫人》初演の日〜輝くように美しい八千草薫のオペラ映画

2025年02月17日 17時55分17秒 | 音楽
昨日に引き続き、今日も春なような暖かな陽気に恵まれました。ただ、午後からは風が強まってきていて、明日からはまた冬の寒さが戻ってくるようです。

ところで、今日2月17日は《蝶々夫人》が初演された日です。歌劇《蝶々夫人》(Madama Butterfly)は、



ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)によって作曲された3幕もののオペラです(見出し写真はミラノ初演時のポスター)。

長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く物語は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン1月号に発表した短編小説『Madame Butterfly』を原作にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した戯曲を歌劇台本化したものです。歌劇《蝶々夫人》は色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあって、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品です。

プッチーニは24歳で最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の《マノン・レスコー》で一躍脚光を浴びました。その後《ラ・ボエーム》(1896年)、《トスカ》(1900年)と次々と傑作を生み出したプッチーニが《蝶々夫人》を書いたのは、音楽家として脂の乗り切った時期でもありました。

《トスカ》を発表してから次のオペラの題材を探していたプッチーニは、1900年《トスカ》が英国で初演されるロンドンに招かれました。その時、デーヴィッド・ベラスコの戯曲『蝶々夫人』を観劇したプッチーニは感動し、次の作品の題材に『蝶々夫人』を選びました。

プッチーニはミラノに戻ると、《トスカ》の台本の執筆を手がけたルイージ・イルリカ(1857〜1919)とジュゼッペ・ジャコーザ(1847〜1906)に頼んで、最初から3人の協力で『蝶々夫人』のオペラ制作を開始しました。翌年には難航していた作曲権の問題も片付いて、本格的に制作に着手しました。

《蝶々夫人》作曲にあたってプッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励みました。当時のイタリア駐在特命全権公使であった大山綱介の妻・久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めました。

当時のジャポニスムの流行も反映してか《蝶々夫人》には同時期に作られたオペレッタ《ミカド》などよりはるかに日本的情緒のある作品に高めていて、日本人に好まれるオペラの一つにしている要因となっています。 《蝶々夫人》に引用、転用されたのは

「宮さん宮さん」
「さくらさくら」
「お江戸日本橋」
「君が代」
「越後獅子」
「かっぽれ(豊年節)」
「推量節」

といった曲です。

オペラを聴いていると、これらの旋律があちらこちらに使われているのが分かります。ただプッチーニはこれらの曲の歌詞の内容まで吟味したわけではないようで、長崎の話なのに「お江戸日本橋」が流れてきたりすると、何だか「江戸の仇を長崎で討つ」みたいな微妙な気分になるのは日本人だけでしょうか(汗)。

1904年2月17日ミラノ、スカラ座で行われた初演は、プッチーニの熱意にもかかわらず振るいませんでした。もっとも、プッチーニの作品は《蝶々夫人》に限らず、初演で不評を買うのが常ではあったのですが…。

初演では拍手ひとつなく、



その時に蝶々さんを演じたロジーナ・ストルキオ(1872〜1945)は舞台裏で泣き崩れ、それをプッチーニが抱きしめて励ましたといいます。それでもプッチーニは《蝶々夫人》の成功を信じ、自らの生存中はスカラ座での再演を禁じていました。

失敗の理由についてはいくつかの点が指摘されていますが、初演版では第2幕に1時間半を要するなど上演時間が長すぎたことや、文化の異なる日本を題材にした作品であったため観客が違和感を覚えたという原因が挙げられています。ひどく落胆したプッチーニでしたが、初演後すぐさま改稿に取りかかりました。

改訂版の上演は3か月後の同年5月28日、イタリアのブレシアで行われ、こちらは大成功を収めました。その後、ロンドン、パリ公演とプッチーニは何度も改訂を重ね、1906年のパリ公演のために用意された第6版が、今日まで上演され続けている決定版となっています。

《蝶々夫人》は抒情的なテーマを盛り上げる美しいメロディや複雑な和声効果の使用などプッチーニの音楽の特色が現れた作品であり、イタリアオペラを代表する演目の一つとなっています。プッチーニにとっては、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)によって完成されたロマン派オペラの後継者としての地位、イタリアオペラのマエストロの地位を確立させることになった代表的作品でもあります。

《蝶々夫人》には数々の名盤がありますが、今回は一風かわったオペラ映画をご紹介しようと思います。

1954年(昭和29年)にカルミネ・ガローネ(1885〜1973)が監督として、東宝とリッツオーリ・フィルム=ガローネ・プロの日伊合作でオペラ映画《蝶々夫人》が製作されました。所々ナレーションでつながれたダイジェストオペラ映画で、合唱には宝塚歌劇団員をはじめとした日本人俳優たちが登場し、タイトルロールである蝶々さんは



当時宝塚歌劇団在団中だった八千草薫(1931〜2019)が演じました。

この映画ではキャストは全て「口パク」で演じ、歌唱は全て吹き替えで行われていますが、吹き替えとは思えないほどキャストの口の動きが歌唱にピッタリと合っていて驚かされます。日本的なセットと美しい所作が魅力的なこのオペラ映画は、日本だけでなくイタリアでも大評判をとりました。

そんなわけで、今日はプッチーニの歌劇《蝶々夫人》を、日伊合同製作によるオペラ映画でお楽しみいただきたいと思います。二十代の八千草薫が演じる、輝くように美しい蝶々夫人を御覧ください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はゴセックの祥月命日〜最後の審判のラッパの音が降り注ぐ壮大な《レクイエム》

2025年02月16日 17時17分50秒 | 音楽
今日はかなり暖かな陽気となりました。この勢いだと桜の蕾も膨らんでしまいそうですが、週明けからまた冷え込みが戻ってくるようなので、ことはそう安々とは進まないようです。

ところで、今日2月16日はゴセックの祥月命日です。



フランソワ=ジョゼフ・ゴセック(1734〜1829)は、フランスで活躍したベルギー出身の作曲家・指揮者です。

『…誰?』

と思われる方もおいでかと思いますが、



ヴァイオリンのための愛らしい小品《ガヴォット》の作曲家といえば、分かっていただける方も多いのではないでしょうか。

現在はこの《ガヴォット》1曲のみによって知られているゴセックですが、実は交響曲の大家で30曲近くの交響曲を書きました。パリ音楽院創立の際には作曲の分野における教授として招かれていて、共和政・帝政時代の革命歌の作曲家としても歴史的に名を残している人物です。

ゴセックは95年という当時としては異例とも言える長い生涯を過ごし、大雑把に言えばバロック音楽の終焉から初期ロマン派音楽の勃興までに遭遇した稀有な人物でした。同じような時期を過ごした長寿の作曲家といえば



フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)が有名ですがそれでも77年の生涯ですから、ゴセックが如何に長生きしたかが分かるかと思います。

多くの交響曲を作曲したゴセックでしたが、次第に交響曲の作品数を減らしていってオペラに集中するようになると、1784年に『エコール・ドゥ・シャンÉcole de Chant (唱歌伝道所)』を設立し、フランス革命の際には作曲家エティエンヌ・メユール(1763〜1817)とともに救国軍の楽隊指揮者を務めました。1795年にパリ音楽院が設立されるとルイジ・ケルビーニ(1760〜1842)やメユールとともに視学官に任命され、フランス学士院の最初の会員に選ばれるとともに、レジオンドヌール勲章を授与されました。

しかし、1815年にワーテルローの戦いでナポレオンが敗北するとパリ音楽院はしばらく閉鎖に追い込まれ、当時81歳のゴセックも引退を余儀なくされてしまいました。その後は音楽院近くで年金暮らしを続けながら、最後の作品となる3曲目の《テ・デウム》の作曲に1817年まで取り組んでいました。

ゴセックはフランスの外ではほとんど無名であり、おびただしい数の作品は、宗教音楽も世俗音楽もともに同時代のより有名な作曲家の陰に隠れていってしまいました。そして1829年の2月16日、ゴセックはパリ郊外のパシーに没しました(享年95)。

そんなゴセックの祥月命日である今日は、《レクイエム》をご紹介しようと思います。

18世紀の後半になると、フランスではレクイエムに大きな変化が現れていました。それはオペラ的要素が加わったばかりでなく曲全体が長大となり、特にセクエンツィアの〈怒りの日〉が楽曲の大きな部分を占めるようになっていったのですが、この作品はその顕著な例となっています。

1760年3月に、当時のパトロンであったコンデ公の妻シャルロット・ド・ロアンが亡くなるとゴセックはその追悼のために《レクイエム》を作曲し、同年5月に初演しました。この曲は演奏に1時間半を要する大作で、オラトリオ以外の宗教音楽としては当時異例の長さでした。

ゴセックはこの《レクイエム》で、最初の大成功を収めました。中でも『トゥーバ・ミルム(妙なるラッパ)』部分の管弦楽法は当時としては驚くべきもので、ゴセック自身によれば

「〈怒りの日〉の3章と4章で3本のトロンボーン、4本クラリネット、4本のトランペット、4本のホルン 、8本のファゴットが教会の見えない場所や、高いところから最後の審判を告げたので、聴衆は恐怖に包まれた。その時オーケストラの全部の弦楽器がトレモロを弾き続けたのは、その恐怖の表現だったのである」

と言っています。

また、京都ノートルダム女子大学元学長の相良憲昭氏(1943〜2020)はゴセックの《レクイエム》の先進性について

「ゴセックの《レクイエム》は、おそらく当時のもっとも前衛的な曲の一つだったのではないだろうか。バッハが死んで十年、ヘンデルの死の翌年にこのような曲が生まれたのは驚くばかりである。」

「勿論、対位法の用い方にはバロック音楽の体臭を濃厚に感じとることができるが、大胆なオーケストレーションや壮麗極まりないホモフォニックな旋律などは古典派の全盛期の例えば、ハイドン晩年の『ミサ曲』やベートーヴェンのオペラ 『フィデリオ』、さらにはベルリオーズの『レクイエム』すらを予見させるものがある」

と評しています。

この作品を称賛したモーツァルトは、1778年のパリ滞在中にゴセックを訪ねました。そして、

「とてもいい友人になりました。とても素っ気ない人でしたが。」

という会見記を父レオポルトに書き送っています。

そんなわけで、今日はゴセックの《レクイエム》をお聴きいただきたいと思います。フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮による演奏で、現在では愛らしい《ガヴォット》のみで知られるゴ豪華で壮麗な鎮魂歌をお楽しみください。

因みに、この動画の『トゥーバ・ミルム』は21:05から始まります。バルコニーの上から降り注ぐ、最後の審判のラッパの迫力も聴きどころです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はヨハン・シュトラウス2世の名作《美しく青きドナウ》初演の日〜『オーストリア第二の国歌』としての合唱曲

2025年02月15日 17時18分20秒 | 音楽
今日は、比較的暖かな陽気となりました。今日は調子が良かったので散歩に出かけてみたのですが、日陰に入るとまだ風の冷たさが身に沁みました。

ところで今日2月15日は、かの名作ワルツ《美しく青きドナウ》が初演された日です。《美しく青きドナウ》(An der schönen, blauen Donau)作品314は、



ヨハン・シュトラウス2世(1825〜1899)が1867年に作曲したウィンナ・ワルツで、現在は管弦楽作品として親しまれていますが、元々は合唱用のウィンナ・ワルツです。

この曲は《ウィーンの森の物語》《皇帝円舞曲》とともにヨハン・シュトラウス2世の『三大ワルツ』に数えられている中でも最も人気が高い作品で、作曲者およびウィンナ・ワルツの代名詞ともいわれる作品です。オーストリアにおいては、正式なものではありませんが、帝政時代から現在に至るまで『第二の国歌』とも呼ばれています。

1865年初頭、シュトラウス2世は、ウィーン男声合唱協会から協会のために特別に合唱曲を作ってくれと依頼されました。この時シュトラウス2世は断ったのですが、


「今はできないことの埋め合わせを、まだ生きていればの話ですが、来年にはしたいとここでお約束します。尊敬すべき協会のためなら、特製の新曲を提供することなど、おやすい御用です。」


と約束しました。

約束の1866年には新曲の提供はされませんでしたが、シュトラウス2世は合唱用のワルツのための主題のいくつかをスケッチし始めました。翌1867年、シュトラウス2世にとって初めての合唱用のワルツが、未完成ではあったもののウィーン男声合唱協会に提供されました。

シュトラウス2世はまず無伴奏の四部合唱を渡しておいたのですが、その後、



急いで書いたピアノ伴奏部を


「汚い走り書きで恐れ入ります。二、三分で書き終えないといけなかったものですから。ヨハン・シュトラウス。」


というお詫びの言葉とともにさらに送りました。シュトラウス2世からピアノ伴奏部が協会に送付されてきた当初、この曲には四つの小ワルツがワンセットになっていて、それに序奏と短いコーダが付いていました。

この四つの小ワルツとコーダに歌詞を付けたのはアマチュアの詩人であるヨーゼフ・ヴァイルという協会関係者でしたが、歌詞を付ける作業は一筋縄ではいかなかったようです。というのも、ヴァイルが四つの小ワルツにすでに歌詞を乗せた後で、シュトラウス2世がさらに五番目の小ワルツを作ったからで、シュトラウス2世はヴァイルに四番目の歌詞の付け替えと、五番目の小ワルツの新たな歌詞、そしてコーダの歌詞の改訂を要求したといいます。

初演の直前になって急に曲にオーケストラ伴奏を付けることが決まり、シュトラウス2世は急ピッチで作曲の筆を進めました。ドナウ川をイメージしたと伝えられる有名な序奏部分も、実は初演の直前に急いで書き足されたものです。

そして1867年2月15日、合唱曲《美しく青きドナウ》はウィーンのディアナザールで初演されました。当日夜、シュトラウス2世とシュトラウス楽団は宮廷で演奏していたため、合唱指揮者ルドルフ・ワインヴルム(ドイツ語版)の指揮のもと、当時ウィーンに暫定的に駐留していたハノーファー王歩兵連隊管弦楽団の演奏で初演されました。

初演は不評に終わったと言われることが多いですが、実際のところ当時のウィーンの新聞の多くはこの初演の成功を報じています。決して不評というわけではなかったのですが、アンコールがわずか1回だけだったことは作曲者にとって期待外れだったようです。

その後《美しく青きドナウ》は、パリやロンドンで絶賛され、こうした評判がウィーンにも届くとウィーンでも演奏されるようになり、その後たちまち世界各地で演奏されるようになっていきました。1872年6月17日にシュトラウス2世を招いてアメリカ合衆国ボストンで催された「世界平和記念国際音楽祭」では、2万人もの歌手、1000人のオーケストラ、さらに1000人の軍楽隊によって、10万人の聴衆の前でこのワルツも演奏されました。

やがて、この曲に「国歌」にふさわしい歌詞が伴うようになりました。1890年、フランツ・フォン・ゲルネルトによる現行の歌詞に改訂されたのです。

ゲルネルトもやはりヨーゼフ・ヴァイルと同様ににウィーン男声合唱協会の会員で、作曲や詩作をたしなむ裁判所の判事でした。新たに付けられた歌詞は、かつてヴァイルが付けたものとはまったく異なる荘厳な抒情詩でした。


Donau so blau,
so schön und blau
durch Tal und Au
wogst ruhig du hin,
dich grüßt unser Wien,
dein silbernes Band
knüpft Land an Land,
und fröhliche Herzen schlagen
an deinem schönen Strand.


いとも青きドナウよ、
なんと美しく青いことか
谷や野をつらぬき、
おだやかに流れゆき、
われらがウィーンに挨拶を送る、
汝が銀色の帯は、
国と国とを結びつけ、
わが胸は歓喜に高鳴りて、
汝が美しき岸辺にたたずむ。


改訂新版が初めて歌われたのは1890年7月2日で、この後広く『ハプスブルク帝国第二の国歌』と呼ばれるようになっていきました。ウィーンを流れるドナウ川をヨーロッパの国々に繋がる一本の帯に見立てた国土を謳う立派な歌詞が付けられたことで、このワルツはハプスブルク帝国およびその帝都ウィーンを象徴する曲に生まれ変わったのでした。

オーストリアでは帝政が廃止された後、ハイドンによる皇帝讃歌《神よ、皇帝フランツを守り給え》から別の国歌に変更され、さらに紆余曲折を経てモーツァルトの作品とされる『山岳の国、大河の国』に変更されました。その一方で《美しく青きドナウ》は、オーストリア=ハンガリー帝国時代と変わらず『第二の国歌』としての立ち位置を維持していきました。

1945年4月に、オーストリアはナチス・ドイツ支配から解放されました。しかし独立後の国歌が未定だったことから、オーストリア議会はとりあえず正式な国歌が決まるまでの代わりとして《美しく青きドナウ》を推奨しました。その伝統は、今でも続いています。

そんなわけで、今日は《美しく青きドナウ》を、初演時の合唱曲バージョンでお聴きいただきたいと思います。ヨハン・シュトラウス2世最大のヒット曲にして、『オーストリア第二の国歌』たる名曲をお楽しみください。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほら、言わんこっちゃない…

2025年02月14日 17時17分17秒 | 工作
今日の小田原は、比較的暖かな陽気となりました。そんな中で2月も半分が終わり、学年末に向けていろいろと切羽詰まってきています。

現在、5年生を中心にして『6年生を送る会』ならびに卒業式の準備が進められています。私の勤務先の小学校では5年生が陣頭指揮を執って飾りやプレゼントを作り、下学年にも指示を出して様々なものを手分けして作ってもらうのが伝統になっています。

支援級の子どもたちは企画立案や指示出しといった作業が難しいので、飾りの材料を作ってもらう係をさせています。卒業式の飾りといえば、



花紙で作る色とりどりの花や



折り紙を切って作る輪飾りがメインですが、支援級の子どもたちにはこうしたものをひたすら量産してもらっています。

ただ、勉強ではない時間になると、どうしても男子を中心として作業をサボってふざけ始めてしまいます。それを見た女子が男子を咎めて作業をさせるという悪循環が続くのですが、今日は特におふざけが過ぎていたので、遂に

「あんたたちが卒業する時にふざけた飾りになってても、絶対に文句言うなよ男子!」

と、女子のリーダーがブチ切れてしまいました。

そのキレっぷりが余程怖かったのでしょう、その後は粛々と作業が進みました。何しろ今月末には『6年生を送る会』の本番を迎えますから、実行委員になっている子たちからしたら、人の気も知らないでふざけ回っている男子を許し難かったのでしょう。

彼らの準備も、いよいよ佳境に入っています。一体どんな『6年生を送る会』が出来上がるのか、今から楽しみです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思った通りの答えがきた『じょじょ』

2025年02月13日 18時18分18秒 | 音楽
今日は日差しが暖かな、春を思わせるような天気となりました。そんな中、今日は勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室がありました。

今月は帰りの歌に《春よ来い》を歌わせていますが、その中に

〽赤い鼻緒のじょじょ履いて

という歌詞があります。そこで、今回はこの『じょじょ』とは何か子どもたちに問いかけてみることにしました。

すると、中学年の男子が真っ先に手を挙げたので指名すると

「◯ョ◯ョの奇妙な冒険!」

という答えが返ってきました。まぁ、これは想定内だったので

「その『◯ョ◯ョ』はカタカナ、こっちの『じょじょ』は平仮名な。」

と突っ込んでおきました(笑)。

ご存知の方もおられるでしょうが、『じょじょ』とは



草履の幼児語です。小さな子どもはまだ言葉を上手く発音できないため『ぞうり』が『じょーり』になり、更に幼児語では同じセンテンスを繰り返す・・・例えば犬を『わんわん』と言ったり車を『ブーブー』と言ったりする・・・傾向があるので、草履のことも『じょじょ』というようになった…というのが通説です。

近頃は七五三でもなければ、子どもが草履を履く機会もなくなってきています。せめて歌を通して、子どもたちにこうした文化を伝えていければと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浮き足立つ支援級と『柚子&金柑パンナコッタ』&『きんかんソーダ』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2025年02月12日 18時18分20秒 | カフェ
今日は午後から通信簿の評価付けがあるとのことで午前中で授業が終わり、給食と清掃が終わってから即下校となりました。そのことで支援級の子どもたちは朝から浮足立っていていろいろとやらかしたので、私は一日中叱り飛ばしていました。

子どもたちが帰ったからといって、私の仕事は終わりません。契約では7時間働くことになっているので、いろいろと雑用を仰せつかるわけです。

そんな雑用を済ませてから、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は



『柚子・金柑パンナコッタ』と



『きんかんソーダ』をオーダーしました。どちらにも自家製の柚子&金柑のマーマレードが使われていて、適度にほろ苦い金柑の甘露煮がアクセントになっています。

爽やかな早春の柑橘をいただいて、ホッとひと息つくことができました。今夜は一雨あるようなので、教室が終わったら早めに帰ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇紀2685年紀元祭@相模國一之宮寒川神社

2025年02月11日 15時15分15秒 | 神社仏閣
今日は皇紀2685年紀元節ということで、相模國一之宮寒川神社に参拝することにしました。昨年は来られなかったので、2年ぶりということになります。



気温9℃の寒空の下、寒川神社の鳥居をくぐり、手水を遣ってから



弁財天のねぶたが掲げられた神門に向かいました。実はこのすぐ横には御祈祷の列ができていたのですが、



どんだけ待たされているんだ?!と思うほど大勢の人々が並んでいました。

神門をくぐると、



壮麗な拝殿が見えてきます。さすがは相模國一之宮の称号に相応しい社殿です。

やがて



白妙の装束に身を包んだ神職と、氏子や神輿会、市長や町議会議員たちの列がやってきました。そして、





宮司をはじめとした神職たちが拝殿に入り、巨大な太鼓が打ち鳴らされて『皇紀2685年紀元祭』が始まりました。

宮司の一礼に続いて、





開かれた本殿の扉の中に神撰が次々と運ばれていきました。そして宮司によって祝詞が奏上されたあと、



巫女たちによって『浦安の舞』が奉納されました。

本当ならどうがを撮りたかったのですが、賽銭にジャラ銭を投げ込む音や躾けられていないクソガキの雄叫びといった周りの騒音があまりにもやかましくて断念しました。なので『浦安の舞』については、以下の動画をご参照ください。



その後、参列者たちが神前に玉串を捧げ、宮司による一礼が捧げられて儀式は終わりました。そして、





儀式を終えた神職たちが参集殿へと帰っていきました。

こうした厳粛な神事を目の当たりにするということは、やはり気持ちのいいものです。あたたかな日差しが降り注ぐ中でしばらく境内に滞在した後、



末社の宮山神社にも参詣して帰りました。

明日から、また小学校勤務が始まります。ただ、今日が火曜日で明日が水曜日だということを忘れないように気をつけようと思います(汗)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静養の身に沁みた名曲〜リヒャルト・シュトラウス『明日!』

2025年02月10日 17時17分17秒 | 音楽
昨日までと比べるとだいぶ体調は良くなってきましたが、それでも咳だけがどうしても止まりません。声も出し辛いのでここ数日はひたすら黙っていることが多く、龍角散のど飴がお友達になっています。

土曜日からはとにかくゆっくりと過ごすことを目的としていて、身体を温めながらいい音楽を聴くようにしています。そのいくつかの音楽の中で特に心に沁みたのが、『明日!』という歌曲です。

『明日!(Morgen!)』作品27-4は、



リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)が1894年に作曲した歌曲です。タイトルの『Morgen!』は、『明日!』『あした!』『あした』『あしたには!』『明日(あす)の朝』など、さまざまに訳されていますが、今回は『明日!』にさせていただきます。

『明日!』は、新婚の妻パウリーネのために書かれたと伝えられる《4つの歌曲》作品27の締めくくりに位置する作品です。シュトラウスの作品のなかでも特にロマンティックなものの一つとされていて、単体で知名度も高いものとなっています。

簡素ながら、非常に繊細な美しさを持った作品で、ピアニストのジェラルド・ムーア(1899〜1987)は著書『歌手と伴奏者』の中で、

「『壊れものにつき、取扱注意』のラベルを張るべきである」

と述べています。少々大袈裟な表現かも知れませんが、そのくらい繊細な小品だということができます。

スコットランド系ドイツ人作家ジョン・ヘンリー・マッケイ(1864〜1933)によるテクストは、



Und morgen wird die Sonne wieder scheinen
Und auf dem Wege,den ich gehen werde,
Wird uns,die Glücklichen,sie wieder einen
Inmitten dieser sonnenatmenden Erde …

そして あした 太陽は再び輝くだろう
そして私が歩む道々の上で
幸せな私たちを 太陽は再び一つにするだろう
隅々まで太陽が呼吸している大地に囲まれた中で …

Und zu dem Strand,dem weiten,wogenblauen,
Werden wir still und langsam niedersteigen,
Stumm werden wir uns in die Augen schauen,
Und auf uns sinkt des Glückes stummes Schweigen …

そして 広がる 青く波打つ浜辺へ
私たちは静かにゆっくりと降りていくだろう
黙って 私たちはお互いに見つめ合い
そして 私たちの上に 幸せな無言の沈黙が沈んでいく …



という希望に満ちた愛の詩で、やや感傷的で儚く繊細な詩です。シュトラウスもそれを受けて、繊細の極みといってよい音楽をつけました。

『明日!』はLangsam, sehr getragen(ゆるやかに、きわめて落ち着いて)という指示の書かれた、ト長調、4/4拍子の曲で、最初のフレーズが解決しないうちに歌がサブドミナントで入ってくる開始は非常に印象的です。作曲者自身による管弦楽編曲もあり、そこでは一貫してアルペッジョをハープが、主旋律を独奏ヴァイオリンが受け持っています。

この曲は、かつて私も知り合いのソプラノ歌手のリサイタルの客演でヴァイオリンを弾いたことがありました。至ってシンプルな音符なのですが、線が細くなり過ぎないようにしながらもソプラノの邪魔になってもいけないので、かなり悩みながら練習した記憶があります。

そんなわけで、今日はリヒャルト・シュトラウスの『明日!』をお聴きいただきたいと思います。ディアナ・ダムラウのソプラノ、ルノー・カピュソンのヴァイオリンソロ、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮、フランス国立管弦楽団によるエッフェル塔前での野外ライブ映像で、この上なく美しいリヒャルト・シュトラウスの歌曲をお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はヴェルディの歌劇《ファルスタッフ》初演の日〜豪華キャストによる大団円『この世は全て冗談』

2025年02月09日 17時17分17秒 | 音楽
今日もよく晴れた、気持ちのいい天気となりました。それでも、何だか疲れがとれずにいた私はそんないい天気の中に身を投ずるこどなく、今日も自宅で引きこもっていました…。

ところで、今日2月9日は《ファルスタッフ》が初演された日です。歌劇《ファルスタッフ》は、



ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)作曲、アッリーゴ・ボーイト(1842〜1918)改訂と台本による3幕物のコメディア・リリカ・オペラで、原作はイギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564〜1616)の喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』です。

《ファルスタッフ》はヴェルディが80代目前に制作した最後のオペラであり、26作に及ぶヴェルディのオペラ作品の中でわずか2作しかない喜劇のうちの一つです(もう1作である初期の喜劇作品《一日だけの王様》は、現在では滅多に上演されることはありません)。また、19世紀半ば以降に書かれ、今日も上演されるイタリアオペラとしても、喜劇は《ファルスタッフ》の他にはプッチーニの中篇《ジャンニ・スキッキ》が挙げられる程度です。

シェイクスピアの劇を題材としたヴェルディのオペラは《マクベス》、《オテロ》に次いで3作目となります。同じ原作によるオペラには、カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフの《ウィンザーの陽気な女房たち》やアントニオ・サリエリ《ファルスタッフ》などがあり、半世紀先行してオットー・ニコライが作曲したドイツオペラ《ウィンザーの陽気な女房たち》が序曲を中心に有名ですが、これらの歌劇全体の上演機会はヴェルディ作品に比べずっと少ないものです。

《ファルスタッフ》の初演は1893年2月9日にミラノのスカラ座で行われ、大成功を収めました。直前の作品である《アイーダ》や《オテロ》ほど爆発的な人気を得たわけではないものの、《ファルスタッフ》はその高尚さと音楽的創造性のために大好評となったのでした。

全部聴くと2時間以上かかるので、今回はフィナーレの大フーガ『この世は全て冗談だ』をご紹介しようと思います。

巨漢の騎士ファルスタッフと様々な人たちとのドタバタ劇が笑いに包まれて終わると、まるでロッシーニのオペラ・ブッファのフィナーレのようにキャストが横に並んで

♪この世は全て冗談、人は皆道化師だ!

と陽気に歌います。聴いているだけなら楽しげに聴こえますが、実はこのフィナーレはファルスタッフから始まるフーガになっていて、想像以上にものすごく緻密な音楽が展開されていきます。

そんなわけで、今日はヴェルディの晩年の傑作歌劇《ファルスタッフ》から、フィナーレの大フーガ『この世は全て冗談だ』をお聴きいただきたいと思います。ポール・プリシュカ、ミレッラ・フレーニ、マリリン・ホーン、バーバラ・ボニーといった錚々たる歌手陣、ジェームス・レヴァイン指揮によるメトロポリタン歌劇場でのライブで、ヴェルディが悲劇を書き連ねた果てに行き着いた境地たる喜劇の愛すべきエンディングをお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何故だが頭で無限ループ〜アーノンクール指揮によるベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》より「サンクトゥス」&「ベネディクトゥス」

2025年02月08日 17時17分17秒 | 音楽
昨日ほどではないにせよ、今日もそこそこ寒い一日となりました。そんな中、今日は何だか頭が痛くてずっと床に臥せっていました。

ところで、ここ2〜3日私の頭の中でずっと鳴り続けている音楽があります。それが、ベートーヴェンの大曲《ミサ・ソレムニス》の「サンクトゥス」と、「ベネディクトゥス」のヴァイオリンソロです。

この曲は自分でも何度かオーケストラで演奏しているので心当たりはあるのですが、何で久しく忘れていた音楽が急に頭の中で鳴りだしたのかは全く心当たりがありません。似たような音楽を聴いたりしたわけでもないので、尚更謎です。

《ミサ・ソレムニス》ニ長調 作品123は、ベートーヴェンの晩年に書かれた大作です。ベートーヴェンといえば



この肖像画が有名ですが、この絵でベートーヴェンが手にしているのが《ミサ・ソレムニス》の楽譜です。

ベートーヴェン自身

「私の最大の作品」

と言っているとおり大変聞き応えのある名曲で、ミサ曲の中ではバッハの《ロ短調ミサ曲》と並ぶ傑作です。曲は《交響曲第9番》ニ短調 作品125と似た編成で書かれていて、作品番号の近さからしても第9の兄弟分と言うことができます。

曲は「キリエ」「グローリア」「クレド」「サンクトゥス〜ベネディクトゥス」「アニュス・デイ」という伝統的なミサ曲通常文を構成する5つの部分から成っています。歌詩もラテン語で歌われますが、全体的に純粋な宗教曲というよりは演奏会的な雰囲気と教会的な雰囲気とをあわせ持ったスケールの大きさがあります。

各楽章はかなり長く、初演も全曲ではなく一部だけが演奏されています(全曲が初演されたのは、意外なことにロシアのサンクトペテルブルクです)。作品は、ベートーヴェンの生涯のパトロンだったルドルフ大公に献呈されています。

第1曲キリエの冒頭に

「心より出て、そして再び心にかえらん」

と書いてあるように、この曲はベートーヴェンの作曲技法のみならず、彼の理想や哲学の総決算ともいえる作品です。どことなくフランス革命やナポレオン戦争時代直後の啓蒙主義的な気分が漂うのも、ベートーヴェンらしいところです。

「サンクトゥス」はヴィオラ以下の中低音弦楽器と木管楽器、ホルン、金管楽器群とティンパニの弱奏で始まります。高音楽器のいない渋いアンサンブルの中から、独唱者が静かに歌い出します。

その後、ニ長調のきらびやかな音楽に転じますが、やがて「前奏曲」と銘打たれた橋掛かり的な音楽になります。こちらもまたヴィオラ以下の中低音弦楽器にフルートが加わって、第9の4楽章の大フーガ前の部分のような静謐な音楽が展開していきます。

その重々しい和音の中からヴァイオリンソロと2本のフルートが、まるで垂れ込めた厚い雲の中から差す天使の梯子のように高音で降りてきて「ベネディクトゥス」が始まります。稀代の名曲《ヴァイオリン協奏曲ニ長調》を彷彿とさせるヴァイオリンソロは歌唱や管弦楽団の間を自由自在に飛び回り、聴くものの心に忘れ難い印象を残します。

そんなわけで、今日は最近私の頭の中でループしまくっているベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》から「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」をお聴きいただきたいと思います。ニコラウス・アーノンクール指揮、アムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による2012年の演奏で、中低音の魅力満載のサンクトゥスと、天国的なヴァイオリンソロが美しいベネディクトゥスをお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする