今日、2023年に入って初めて雨が降りました。といっても天気予報で言われるほどの降水量ではなく、お湿り程度で午後には上がってしまいました…。
ところで、今日1月14日はシュヴァイツァーの誕生日です。
アルベルト・シュヴァイツァー(1875〜1965)はアルザス人の医師、神学者、哲学者、オルガニスト、音楽学者、博学者です。
シュヴァイツァーは1875年に、当時ドイツ帝国領だったオーバーエルザスのカイザースベルクで牧師の子として生まれました。アルザス=ロレーヌ地方はドイツとフランスとの間で盛んに領有争いが行われた紛争地で、地名の変遷にもそれが表れています。
当時のドイツにおいて牧師は社会的地位が高く、シュヴァイツァーの家庭は比較的裕福な部類でした。幼い頃、同級生の少年と取っ組み合いの喧嘩をしてシュヴァイツァーが相手を組み伏せた時、相手の少年はシュヴァイツァーに向かって
「俺だって、お前の家みたいに肉入りのスープを飲ませてもらえれば負けやしないんだ!」
と叫びましたが、これを聞いたシュヴァイツァーは心に激しい衝撃を受け、
「同じ人間なのに、なぜ自分だけが他の子供たちと違って恵まれた生活をしているのか」
と人間の社会を支配する不条理な貧富の差を初めて認識し、子供心に本気で苦悩したといいます。
名門ストラスブール大学に入学したシュヴァイツァーは、哲学の学位論文で『カントの宗教哲学』、神学の学位論文で『19世紀の科学的研究および歴史記録による聖餐問題』を発表し、哲学博士号と神学博士号を取得しました。27歳でストラスブール大学神学科講師となった後、
「30歳までは学問と芸術を身に付けることに専念し、30歳からは世のために尽くす。」
と決意したシュヴァイツァーは大学講師でありながら、30歳から新たにストラスブール大学の医学部に特例で学ぶことになりました。
38歳の時に医学博士の学位を取得したシュヴァイツァーは、当時医療施設に困っていたガボン(当時仏領赤道アフリカの一部)のランバレネで活動しようと決めて旅立つこととなりました。41歳の時に彼の地で『生命への畏敬』という概念にたどり着き、この概念は後のシュヴァイツァーの世界平和への訴えの礎となりました。
その後、第一次世界大戦などによって医療活動が中断され、ドイツ国籍だったシュヴァイツァーはガボンがフランス領であったために捕虜となり、ヨーロッパへ帰還させられてしまいました。保釈後にヨーロッパ各地で講演して回ったりすることでシュヴァイツァーの活動が次第に世間に知れ渡るようになり、アフリカでの献身的な医療奉仕活動が評価されて1952年度のノーベル平和賞を受賞することとなりました。
シュヴァイツァーは医学博士として有名ですが、オルガニストとしても名を馳せていました。
シュヴァイツァーは7歳の頃からピアノを習い、14歳の頃からパイプオルガンを習いました。恵まれた環境の中で才能を開花させたシュヴァイツァーは、フランスのオルガン奏者・作曲家・音楽教師・音楽理論家で、一連の『オルガン交響曲』で有名なシャルル=マリー・ジャン・オベール・ヴィドール(1844〜1937)とも昵懇の中となりました。
しかし、シュヴァイツァーはオルガニストとしての名声も掌中にありながら、先にも書いたように38才の春に医学博士としてアフリカに旅立つこととなりました。その際にシュヴァイツァーは
①パイプオルガンの演奏
②大学の教職
③文筆の仕事
という、それまで自身の活動の柱としていた3つを全て犠牲にすることを覚悟していましたが、この決定に特にヴィドールは猛反対したといいます。
しかし、第一次世界大戦後にガボンから強制送還になったシュヴァイツァーは、自身の医療活動と病院の資金援助のために一度は捨て去ったパイプオルガンの演奏活動を各地で行って周り、録音も残しました。正に『芸は身を助く』といった活動でしたが、その演奏活動を通じてオルガン演奏家としての名声も手に入れていったのです。
そんなわけでシュヴァイツァーの誕生日である今日は、彼の演奏によるバッハの《小フーガト短調》をお聴きいただきたいと思います。医学博士でありながら卓越した演奏で名を馳せたシュヴァイツァーによる、渾身のバッハをお楽しみください。