共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はヴェーベルンの祥月命日〜後期ロマン派的作品《弦楽四重奏のための緩徐楽章》

2022年09月15日 15時33分51秒 | 音楽
今日は一日曇り空だったこともあってか、めっきり涼しくなりました。来週には秋のお彼岸になることもありますから、もうそろそろこうした秋らしい陽気が続いてほしいものです。

ところで、今日9月15日はヴェーベルンの祥月命日です。



アントン・ヴェーベルン(1883〜1945)はオーストリア出身の作曲家、指揮者、音楽学者です。

ヴェーベルンは、一昨日ご紹介したアーノルド・シェーンベルクやアルバン・ベルクと並ぶ『新ウィーン楽派』の中核メンバーであり、なおかつ20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開しました。そのためか親しみ難い作曲家として生前は顧られる機会が殆どありませんでしたが、戦後の前衛音楽勃興の中で再評価され、その後の多くの作曲家に影響を与えることとなりました。

オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれたヴェーベルンの家はクロアチアなどに領地を所有する貴族の家柄で、正式な名前は『アントン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴェーベルン』といいます。ただヴェーベルン自身はミドルネームを公式には使わず、恐らく厭戦的な気分やオーストリア帝国が崩壊したことなどを受けてか、1918年には貴族のみに名乗ることを許された『フォン』を姓から外してしまいました。

1902年からウィーン大学で音楽学を学んだヴェーベルンは1904年からシェーンベルクに師事して作曲修行を続け、1908年に《パッサカリア ニ短調》作品1によって独立を許されました。同じくシェーンベルクの門下生だったアルバン・ベルクは、その後のヴェーベルンの音楽活動において影響を及ぼしています。

第一次世界大戦後は、シェーンベルクを輔佐して『私的演奏協会』を設立しました。1922年から1934年まではウィーン労働者交響楽団の指揮者を務め、BBC交響楽団の公演にも定期的に客演を続けました。

1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると、ヴェーベルンの前衛的な音楽はナチスから『頽廃音楽』の烙印を押されてしまい、演奏活動で生計を立てることは困難になってしまいました。1945年には、終戦後に作曲活動を再開する思惑からウィーンを去って、ザルツブルク近郊の娘の家に避難することとなりました。

しかし、この娘の婿が元ナチスの親衛隊で、当時は闇取引に関与していたことが仇となってしまいました。1945年の9月15日、ヴェーベルンがタバコを吸うためにベランダに出て火をつけたところ、それを偶然見たオーストリア占領軍の米兵がその炎を闇取引の合図と勘違いしてしまい、なんとその場で射殺されてしまったのです(享年61)。

さて、そんなヴェーベルンの作品の中から、今日は初期に作曲された《弦楽四重奏のための緩徐楽章》をご紹介しようと思います。

ナチスを避けてアメリカに亡命したシェーンベルクと違って、ヴェーベルンはヒトラーの熱心な支持者でした。ところが、ナチスにとって必要な音楽はリストやヴァーグナーといったドイツにおいて歴史と伝統のある確固たるロマン派の音楽だったため、ヴェーベルンの前衛的な現代音楽は先程も書いたようにナチスによって『頽廃音楽』の烙印を押されてしまったのです。

そうしたことも原因して、ヴェーベルンの生前の評判はあまり芳しいものではありませんでした。しかし、ヴェーベルンの初期の作品は前衛的な技法や実験的な要素などは殆ど感じられず、むしろブラームスやヴァーグナーといった後期ロマン派の音楽への憧憬を感じるほどです。

《弦楽四重奏のための緩徐楽章》が書かれたのは1905年、ヴェーベルンが22歳の時でした。10分もないくらいの短い作品ですが、雰囲気としては師匠であるシェーンベルクの《浄められた夜》を凝縮したような内容の濃い作品です。

伸びやかで抒情感豊かな第1主題と生命力に溢れた第2主題との対比が、単一の緩徐楽章に表情をもたらしています。作品全体に流れる美しく情緒深い旋律は、若き日のヴェーベルンが思いを馳せた後期ロマン派の音楽の芳醇な香りが漂うものとなっています。

《弦楽四重奏のための緩徐楽章》は、ヴェーベルンの不慮の死から17年後の1962年に初演されました。ヴェーベルンが師匠シェーンベルクから巣立ち、自身の音楽を窮めていこうとするまさにその時の作品で、師から学んだものを自身のものとして表現していこうとしていた時の作品ということができます。

この後期ロマン派の香り高い佳曲が、当時演奏されることがなかったことは残念なことです。もしこうした初期の作品が演奏される機会に恵まれてヴェーベルンがナチスや当時の音楽界から冷遇されていなければ、現代音楽史はもしかしたら少し変わっていたかも知れません。

そんなわけで、ヴェーベルンの祥月命日である今日は《弦楽四重奏のための緩徐楽章》をお聴きいただきたいと思います。不運な最期を遂げてしまったヴェーベルン若き日の、小品ながら何とも哀しくロマンティックな世界観をお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はオラトリオ《メサイア》の完成日〜時の国王が起立した『ハレルヤ』

2022年09月14日 18時55分18秒 | 音楽
今日も暑くなりましたが、そんな中でも小学校の授業はいつも通り展開され、子どもたちは体育やエアコンの無い特別教室で汗を流していました。

今日は久しぶりにあざみ野の音楽教室が休みになったので、残念ながら《雫ノ香珈琲》には行きませんでした。なので、いつものように気軽にブログに載せられるネタがありません。

かと言って「今日はナシ🙅」というのも味気ないので、何らかのネタを探してみることにしました。そうしたら…ありました。

今日9月14日は



ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685〜1759)の代表作のひとつであるオラトリオ《メサイア》が完成した日です。現在ではクリスマス時期前後によく演奏されている《メサイア》ですが、作曲当初は特定のシーズンを念頭に置いていたわけではなかったようです。

イギリスの著述家でシェイクスピア研究家としても知られているチャールズ・ジェネンズ(1700〜1773)が受難週の演奏会のために台本を書き、それを受け取ったヘンデルは早速オラトリオを作曲しました。ジェネンズがいつ頃までに台本を作成させてヘンデルに渡したのかは判っていませんが、自筆譜から見ると1741年8月22日に着手して9月14日は完成させていますから、作曲期間は24日間という驚くべき速さで書かれています。

台本を受け取ったヘンデルは取り憑かれたように楽想が湧き出てきたようで、自筆譜には時にはペンが追いつかずに略号で書かれているところも多々あるようです。また伝説によれば、第20曲のアルトアリア「この方は侮られて」は自らの楽想に感動し、涙を流しながら書いているところを召使が目にしたという説話も残っています。

ところが台本作家のジェネンズは、ヘンデルがあまりにも早くオラトリオが完成したことに不信感を抱いていたようでした。実際にジェネンズは

「ヘンデルは時間をかけて作曲すると言っていたのに、蓋を開けてみれば一ヶ月足らずで完成させてしまった。こんなにも拙速に音楽を作り上げたヘンデルに、私は正直失望を覚えた。もう彼には宗教的テキストを渡さない。」

と述べていたくらいだったのです。

初演は翌年の1742年4月13日にアイルランドのダブリンで『病院の支援と囚人の慰安のための慈善演奏会』というかたちで行われました。この公演は大成功で、公開リハーサルで大評判をとり、本番では通常600人収容の会場に700人が詰め掛けたといわれています。

一方でロンドンでの初演に際しては、

「聖書の物語をオペラ劇場で演奏するなんて」

という教会からの批判を受けてタイトルは《メサイア》とはせず《新しい宗教オラトリオ》と題して行われました。このロンドンでの初演は決して成功とはいえませんでしたが、その後『慈善演奏会』という名目で演奏会を重ねていったことで徐々にロンドンの聴衆に受け入れられていきました。

さて、《メサイア》といえば何をおいても『ハレルヤ』でしょう。



上の楽譜はヘンデルの『ハレルヤ』の自筆譜ですが、かなり丁寧な筆致であることがわかります。

この『ハレルヤ』は《メサイア》第2部を締めくくる華やかな合唱曲で、ロンドンで初演した際に臨席していた国王ジョージ2世が『ハレルヤ』のところで感嘆のあまり立ち上がったため、それ以降『ハレルヤ』のところでは聴衆が立ち上がる習慣ができた…といわれています。もっともこの話は現在ではフェイクといわれていて、本場イギリスで演奏する際にも、このスタンディングの習慣そのものに賛否両論があるようです。

そんなわけで、今日は《メサイア》のクライマックスといっても過言ではない『ハレルヤ』をお聴きいただきたいと思います。初演から280年の時を経て今なお多くの人びとから愛されている、オペラ作曲家ヘンデルの面目躍如といった華やかな世界観をお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はシェーンベルクの誕生日〜初期の傑作《浄められた夜》

2022年09月13日 17時30分45秒 | 音楽
今日も日中は厳しい日差しが降り注ぐ、暑い一日となりました。小学校の子どもたちも暑さにあてられてグッタリしながら、こまめな水分補給に徹していました。

ところで、今日9月13日はシェーンベルクの誕生日です。



アーノルド・シェーンベルク(1874〜1951)は19世紀から20世紀にかけて時代の先端を行く音楽家であったと同時に2つの大きな戦争を生き抜いた人物でもあり、その経験は彼の晩年の作品に強い影響を与えています。

シェーンベルクはオーストリアのウィーンに、3人兄弟の長男として生まれました。両親ともに音楽の経験はありませんでしたが、シェーンベルクは8歳でヴァイオリン、その後独学でチェロを学び始めます。

15歳のときに父親が他界したのを機に生活のために銀行で働き、それと同時に作曲も学びました。その後21歳になると合唱指揮者を任されるようになり、これを機に本格的に音楽活動を行うようになりました。

いわゆる無調音楽で知られるシェーンベルクですが、初期の頃はまだブラームスやヴァーグナーなど後期ロマン派の影響を強く受けた作品を作曲していました。また、シェーンベルクが27歳で作曲した《グレの歌》は後期ロマン派の集大成とも称される一方、新しい時代の転換点を迎える象徴的な音楽とも考えられています。

20世紀に入ると、シェーンベルクは新たな音楽への探求を深めます。その第一歩が『無調音楽』の試みです。

それまでのロマン派の音楽は、メロディーの美しさをひたすら追求する音楽でした。しかしシェーンベルクは、「調」という音楽の構造自体の変革を求めるようになります。

1908年に作曲された《弦楽四重奏曲第2番》は、無調音楽への挑戦の第一歩と言われています。その後に発表された《3つのピアノ曲》や《5つの管弦楽のための小品》、1911年に発表した《6つの小さなピアノ曲》では、はっきりとした無調音楽が展開されています。

また、この時期を代表する作品に1912年に発表された《月に憑かれたピエロ》がありますが、この作品はラヴェルやストラヴィンスキーといった作曲家たちに強い影響を与えました。無調音楽の発表当初は聴衆から酷評を受けてウィーンから追放されたシェーンベルクでしたが、演奏の機会が徐々に増えると共に無調音楽の試みも少しずつ聴衆に受け入れられるようになりました。

やがて、自身が確立した無調音楽が聴衆に受け入れられるようになってきたことを感じたシェーンベルクは、新たな音楽の確立を模索し始めます。そこで考え出されたのが『十二音技法』です。

『十二音技法』とは非常に複雑な音楽理論なのですが、ものすごく噛み砕いて言うならば「ドから次のドまでの黒鍵を含めた12の音を均等に扱う」という作曲技法です。詳しく説明するととんでもないことになってしまうので、ここでは割愛させていただきます(汗)。

シェーンベルクが十二音技法を本格的に取り入れた作品としては1920年代に作曲した《5つのピアノ曲》作品23があり、この作品以降、十二音技法を駆使した作品を積極的に発表することになりました。この十二音技法はシェーンベルクの弟子であるアントン・ヴェーベルン(1883〜1945)年やアルバン・ベルク(1885〜1935)らによって更に発展し、現代音楽の礎とも言える技法の一つとして確立されました。

1933年頃になると、シェーンベルクはナチスから逃れるためにフランスにしばらく滞在した後にアメリカへ亡命しました。アメリカで市民権を得たシェーンベルクは南カリフォルニア大学やカリフォルニア大学ロサンゼルス校などで教鞭をとって音楽活動を続けましたが、その教え子には



先日ご紹介した、《4分33秒》で知られる作曲家ジョン・ケージ(1912〜1992)もいました。

そんな数あるシェーンベルクの作品の中から、今日は初期を代表する室内楽《浄められた夜(浄夜)》をご紹介しようと思います。

《浄められた夜》または《浄夜》作品4はシェーンベルクが1899年にウィーンで作曲した弦楽六重奏曲で、彼の初期作品の中では《グレの歌》と並んで最も有名かつ最も重要な作品の一つです。発表後に弦楽合奏用に編曲や改訂が繰り返され、初期のシェーンベルクの代表作となりました。

この曲は、月下の男女の語らいが題材となっているドイツの詩人リヒャルト・デーメル(1863〜1920)の同名の詩『浄夜』に基づいていて、室内楽のための『音詩』という極めて特異なジャンルを開拓したことでも有名です。1902年3月18日にウィーンで初演が行われた際には、シェーンベルクがつむぎ出す当時としては斬新な半音階を多用した響きや調性があちこちに浮遊するパッセージ、更にはあけすけに性を主題とするデーメルの作品を出典に作曲する姿勢をめぐって波紋を呼びました。

そんなわけでシェーンベルクの誕生日である今日は、初期を代表する作品である《浄められた夜》の弦楽六重奏曲初演版をお聴きいただきたいと思います。無調音楽を編み出す前の、シェーンベルクの非常にロマンティックな世界観をお楽しみください。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はラモーの祥月命日〜ヴァイオリンレッスン生にはお馴染みの《ガヴォットニ長調》

2022年09月12日 18時18分18秒 | 音楽
今日は朝こそ涼しかったものの、日中はなかなかの暑さに見舞われました。それでも湿度が低かった分、不快指数が低かったのが幸いでした。

ところで、今日9月12日はラモーの祥月命日です。



ジャン=フィリップ・ラモー(1683〜1764)は、バロック時代のフランスの作曲家で、音楽理論家としても活躍していた人物です。

父親がディジョン大聖堂のオルガニストだったこともあって、ラモーは幼児期からクラヴサン(チェンバロ)演奏に親しんでいた可能性があると考えられています。しかし、ラモー元々は法学を学んでいて、はじめ音楽と音楽研究は情熱の対象にすぎなかったようです。

青年時代をイタリアやパリで過ごしたラモーは、父親の跡を継いでクレルモン大聖堂の教会オルガニストに就任しました。その後パリ、ディジョン、リヨンなどでもオルガニストを務め、1723年からパリに定住して、時の財務官アレクサンドル・ド・ラ・ププリニエールの後援を得ることとなりました。

作曲の分野において名声を勝ち得るようになるのは、ラモーが40代になってからでした。それでも、1733年にフランソワ・クープラン(1668〜1733)が他界するまでには当時のフランス楽壇の指導的作曲家になっていきました。

その頃からラモーは専らオペラの作曲に没頭するようになり、先輩作曲家であるジャン=バティスト・リュリ(1632〜1687)に取って代わり、フランスの哲学者、文学者、歴史家であるヴォルテール(本名フランソワ=マリー・アルエ、1694〜1778)と数々のオペラを共作しました。とりわけ《ナヴァールの姫君》の発表によって、ラモーは『フランス王室作曲家』の称号を獲得することとなりました。

またラモーは、『根音』や『転回形』といった概念を使って、『機能和声法』や『調性』といった現在の和声学につながる理論を体系的に理論化した最初の音楽理論家としても有名です。今日使われている『ハーモニー』という言葉を和音や和声の意味で用いる習慣は、実はラモーに遡るものです。

さて、そんなラモーの祥月命日である今日は《ガヴォットニ長調》を取り上げてみようと思います。曲名だけ聞いても殆どの方はご存知ないかと思いますが、この作品は鈴木バイオリン教本の第6巻に収録されているので、ヴァイオリンのレッスンをされている方にとっては馴染み深いものではないかと思います。

この曲は、元々はラモーの《Le tempre de la gloiore(栄光の寺院)》というオペラ・バレの中の一曲です。装飾音符を伴う華麗な音楽は、いかにもルイ王朝華やかなりし時代のものということができます。

そんなわけで、ラモーの祥月命日である今日はその《ガヴォットニ長調》をお聴きいただきたいと思います。ジャニーヌ・アンドラードのヴァイオリンで、ヴァイオリンレッスン生にはお馴染みの愛らしい小品をお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はアルヴォ・ペルトの誕生日〜《Spiegel in spiegel(鏡の中の鏡)》

2022年09月11日 17時40分45秒 | 音楽
昨晩、中秋の名月を眺めている時も涼しかったのですが、今朝も引き続き涼しい風の吹く秋らしい朝となりました。いっそこのまま秋になってくれればいいのに…と思うのですが日中は30℃近くまで気温が上昇しましたから、ことはそう簡単には運ばないようです。

ところで、今日9月11日はアルヴォ・ペルトの誕生日です。



アルヴォ・ペルト(1935〜)はバルト三国のひとつエストニアに生まれたミニマリズム楽派に属する作曲家の一人で、現在87歳でご存命です。ミニマリズム、或いはミニマル・ミュージックとは『音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させる音楽』という意味合いで、1960年代から盛んになってきたジャンルの音楽です。

ペルトの音楽教育は7歳から開始されていて、14〜5歳の頃には既に作曲をしていました。1957年にタリン音楽院(現エストニア音楽アカデミー)に進んだペルトは作曲を勉強するだけでなく、1968年まではエストニア放送のレコーディングエンジニアの仕事も兼務していました。

1961年に発表したオラトリオ《世界の歩み》によってモスクワで開催された全ソ連青少年作曲コンクールで優勝を果たしたペルトは、作曲家としてのキャリアを本格的に始動させました。1979年には家族と共に当時のソヴィエトからオーストリアのウィーンに亡命して市民権を獲得し、1982年には活動の拠点をベルリンに移しています。

ペルトの作風は、初期の作品群ではショスタコーヴィチやプロコフィエフ、バルトークの影響下にある厳格な新古典主義の様式から、シェーンベルクの十二音技法の音楽にまで影響されていました。その後『西洋音楽の根源への実質上の回帰』を見出したペルトは古楽に没頭し、それまでとは正反対の単旋律聖歌やグレゴリオ聖歌、ルネサンス期におけるポリフォニー(多声)音楽の出現などを研究して『ティンティナブリ(鈴声)』と呼ばれる独自の分野を切り拓きました。

現代音楽というにはあまりにも静謐でシンプルな作品が特徴的なペルト作品ですが、今日はその中から《鏡の中の鏡(Spiegel in spiegel)》を取り上げてみようと思います。

《鏡の中の鏡(Spiegel im spiegel)》はペルトの代表作のひとつで、オーストリアに亡命する直前の1978年に作曲されました。初演をつとめたヴァイオリニストのウラディーミル・スピヴァコフに献呈されたこともあってヴァイオリンとピアノのために書かれていますが、ヴィオラやチェロで演奏されることもあります。

この曲は、極限まで音数を減らした単純な3音によるアルペジオがピアノで終始奏でられる中、高音と低音とが一定の間隔で交互に響いて雰囲気を引き締めています。そのピアノに乗ってヴァイオリンが、一つ下、二つ下の音から『ラ』に向けて上昇してくる音階と、それを鏡に写して反転させたように、一つ上、二つ上の音から『ラ』に向けて下降してくる音階とを交互に展開させる『鏡面進行』を淡々と進めていきます。

正に明鏡止水、逆の言い方をしてしまえば単調なまでに全く盛り上がらない音楽です。しかし、一定の動きに徹するピアノの伴奏と長音を淡々と置いていく弦楽器のメロディを聴いていると、まるで禅堂の中で座禅を組んでいるが如くの世界観に我が身を置いているような心持ちになります。

ペルトは自身の作品について、

「私の音楽は、あらゆる色を含む白色光に喩えることが出来よう。プリズムのみがその光を分光し、多彩な色を現出させることが出来る。聴き手の精神が、このプリズムになれるかもしれない」

と語っています。その言葉に照らすと、《鏡の中の鏡》はプリズムである聴き手の精神を静かに、しかし強く触発する光のような音楽だということができるかも知れません。

演奏時間にして10分程度の作品ですが、その音楽は極めて簡素で静謐です。その中にほんの僅かでも雑念が入るとあっという間に世界観が崩壊してしまいそうな危うさや緊張感をも内包しているこの作品は、いわゆる商業的な癒やしの音楽であるヒーリングミュージックとは大きく一線を画するもので、ペルトのミニマリズムの一つの頂点を形成したものと言っても過言ではないものとなっています。

そんなわけで、アルヴォ・ペルトの誕生日である今日はその《鏡の中の鏡》をお聴きいただきたいと思います。ヴァイオリンやチェロでの演奏も魅力的ですが、今回はヴィオラによる演奏でお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名月と団子と妖精の歌〜中秋の名月に『月に寄せる歌』を

2022年09月10日 19時25分19秒 | 音楽
今日は日中はよく晴れて、気温も上がりました。昼間は相変わらず水分補給が欠かせない状況が続いています。

ところで、今日9月10日は中秋の名月です。例年この時期は天気が悪くなることが多いのですが、今年は天気が良くなったので



このくらいには名月を観ることができました。

肉眼では、もっとハッキリと月を観ることができていましたが、スマホのカメラではこれが限界のようです。折角機種変更して新しいスマホになっても、こればかりはどうにもならなそうです…。

まぁ、一応月が出なかった時のために



コンビニでお月見団子も買ってきて、仏壇にあげておきました。もっと沢山入った山積みタイプの月見団子もあったのですが、一人暮らしで口がひとつしかない我が家にはこの串団子タイプで十分です(汗)。

さて、クラシック音楽にも月に関する音楽は数々あります。有名なところではベートーヴェンのピアノソナタ《月光》やドビュッシーの前奏曲《月の光》などがありますが、今日は



一昨日誕生日だったドヴォルザークの歌劇《ルサルカ》の中で歌われる『月に寄せる歌』を取り上げてみようと思います。

ドヴォルザークが1900年に作曲した歌劇《ルサルカ》は、簡単に言えばアンデルセン童話の『人魚姫』のようなストーリーです。オペラは全3幕から構成されていて、あらすじは以下の通りです。


【第1幕】

森の奥にある湖に住む水の妖精ルサルカは、ある日湖に泳ぎに来ていた人間の王子に恋をする。そして魔法使いのイェジババに「人間の姿の間はしゃべれない」「恋人が裏切った時にはその男と共に水底に沈む」ということを条件に人間の姿に変えてもらう。

美しい人間の娘になったルサルカを見た王子は彼女を見初め、城に連れ帰って結婚することを決める。

【第2幕】

結婚の祝宴でも口をきかないルサルカを冷たい女だと不満に思った王子は、祝宴にやってきていた外国の王女に心を移してしまう。

祝宴の中、居場所をなくしたルサルカが庭へ出ると、水の精たちによって池の中に連れ込まれてしまう。その様子を見た王子は恐怖のあまり王女に助けを求めるが、王女は王子を見捨てて逃げ去ってしまう。

【第3幕】

森の湖へ移されたルサルカに魔法使いは「元の姿に戻すには裏切った男の血が必要だ」と語ってナイフを渡す。しかしルサルカは「愛する王子を殺すことはできない」とナイフを湖に捨ててしまう。

ルサルカを探して湖にやって来た王子は、水の妖精たちから自分がルサルカを裏切ったことの罪を聞かされて、絶望的にルサルカを呼ぶ。

姿を現したルサルカに王子は抱擁と口づけを求める。それは王子に死をもたらすものだとルサルカは拒むが、王子は「この口づけこそ我が喜び、幸いのうちに私は死ぬ」と答える。

ルサルカは最早逆らうことをやめ、王子を抱いて口づける。その口づけを受けて落命した王子の亡骸を抱いて、ルサルカは共に暗い水底へと沈んでゆく。


そしてこのオペラで一番有名なのが、第1幕に登場する『月に寄せる歌』と題されたルサルカのアリアです。

『月に寄せる歌』は


Měsíčku na nebi hlubokém,
空の深みのお月さま、
světlo tvé daleko vidí,
あなたは遥か遠くから、 明るい光を送り出し、

po světě bloudíš širokém,
広い世界を移ろいながら、
díváš se v příbytky lidí.
人々の住みかを見つめている。

Měsíčku, postůj chvíli,
月よ、しばらくそこにいて!
řekni mi, kde je můj milý!
教えて、いとしい人はどこ?

Řekni mu, stříbrný měsíčku,
伝えて、銀のお月さま。
mé že jej objímá rámě,
私はあの人をいつもこの手に抱きしめている。

aby si alespoň chviličku
たとえ、束の間だとしても、
vzpomenul ve snění na mne.
私の夢を見るように。

Zasvit mu do daleka,
照らして…彼方のあの人に。
řekni mu, kdo tu naň čeká!
伝えて!ここで待ってると!

O mně-li duše lidská sní,
ああ人の心が、私の姿を夢に見れば、
at' se tou vzpomínkou vzbudí!
きっと目を覚ましてくれるでしょうに!

Měsíčku, nezhasni, nezhasni!
ああ、消えないで…お月さま消えないで!


という切ない恋心を歌ったアリアです。このアリアはオペラを離れて単独で歌われるだけでなく、そのメロディの美しさからヴァイオリンなどの楽器で演奏されることもあります。

そんなわけで、中秋の名月の今日はその『月に寄せる歌』をお聴きいただきたいと思います。儚い運命をたどる水の妖精の恋心を、ルネ・フレミングによる歌唱でお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

重陽の節句に特別なプッチーニの《菊》を

2022年09月09日 18時20分30秒 | 音楽
今日は五節句のひとつ『重陽の節句』です。

重陽の節句は、平安時代の初めに中国から伝わりました。古来中国では、奇数は縁起が良い「陽数」、偶数は縁起の悪い「陰数」と考えられていて、陽数の最大値である「9」が重なる9月9日を「重陽」と呼んで節句としました。

実際の重陽の節句である旧暦の9月9日は現在の10月中旬ごろにあたり、



菊が美しく咲く時期です。菊は古来「仙境に咲く霊薬」として邪気を払い長寿の効能があると信じられていて、その菊を行事に用いたために重陽の節句は別名『菊の節句』とも呼ばれています。

さて、重陽の節句には菊の花を浮かべた菊酒を呑んで長寿を願うのですが、さすがに新暦の9月9日に菊の花は咲いていないのでそれも儘なりません。ということで、去年もやりましたが今回もプッチーニの《菊》というタイトルの音楽を聴こうと思います。

《菊》は



ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)作曲の唯一の弦楽四重奏曲です。プッチーニの出世作である歌劇《マノン・レスコー》の作曲に取り組み始めた頃に発表されました。

《マノン・レスコー》の作曲中だった1890年1月にプッチーニのパトロンでもあったアオスタ公アメデオ1世が急逝しため、プッチーニはそのアオスタ公の追悼のために一晩でこの曲を書きあげたと伝えられています。後にプッチーニは、この曲のメロディを《マノン・レスコー》の終幕の場面に取り入れています。

作曲の意図が明確なので、ヨーロッパでは弔事の音楽として用いられています。弦楽四重奏のために書かれた作品ですが、コントラバスを加えた弦楽合奏による演奏もしばしば行われています。

そんなわけで、重陽の節句の今日はプッチーニの《菊》をお聴きいただきたいと思います。2019年に76歳で逝去した指揮者マリス・ヤンソンスの追悼のための、バイエルン放送交響楽団弦楽セクションによる演奏を御堪能ください。

この曲を、昨日薨去されたイギリスのエリザベス2世女王陛下の御霊に捧げます。合掌。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はドヴォルザークの誕生日〜ラトル&ベルリンフィルの《スラヴ舞曲第1番ハ長調》

2022年09月08日 17時17分17秒 | 音楽
今日は二十四節気のひとつである『白露』です。秋が深まって朝晩冷えるようになり朝露が降り始める時期という意味ですが、今日は気温こそ昨日より下がったものの湿度が高いので不快指数は高めの日となりました。

ところで、今日9月8日はドヴォルザークの誕生日です。



アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(1841〜1904)は後期ロマン派に位置するチェコの作曲家で、《モルダウ》をはじめとした連作交響詩《わが祖国》の作曲で知られるベドルジハ・スメタナ(1824〜1884)と共に『チェコ国民楽派』を代表する作曲家と呼ばれています。日本では『ドヴォルザーク』や『ドボルザーク』と表記されることが多いですが、チェコ語の発音だと『ドヴォルジャーク』や『ドヴォジャーク』に近くなります。

ドヴォルザークは北ボヘミアの肉屋と宿屋を営む一家の長男に生まれ、父親からは家の跡継ぎとして期待されていましたが、彼の才能を見ぬいた人の後押しを受けて音楽の道に進むことになりました。最初は貧しさと闘いながらの歩みでしたが、ブラームスをはじめとする多くの人々に支えられて次第に国外でも広く名前が知られるようになります。

ドヴォルザークは生涯にわたってドイツ音楽とチェコの民俗音楽を結びつけて新しい音楽をつくることに力を注ぎ、その功績は世界中で高く評価されました。40代には作曲家として充実した時期をむかえ、たびたび外国を演奏活動で訪問して各地で大歓迎を受けました。

更に51歳の時にはアメリカのニューヨーク・ナショナル音楽院の院長として招かれ、2年間をアメリカで過ごして教鞭を執る傍らネイティヴ・アメリカンの歌や黒人霊歌を取材して自作に採り入れていきました。ドヴォルザークはこのアメリカで、交響曲第9番ホ短調《新世界より》や弦楽四重奏曲第12番ヘ長調『アメリカ』、チェロ協奏曲ロ短調といった、彼の代表作と呼ばれる傑作を数多く作曲しました。

ドヴォルザークの代表作には、交響曲や協奏曲の他にも弦楽セレナードや管楽セレナード、ピアノ五重奏曲などがあり、現在でも世界中で演奏されています。そんな中から、今日は《スラヴ舞曲集》を取り上げてみようと思います。

ドヴォルザークは1875年にオーストリア帝国政府の奨学金の審査で提出作品が認められ、以後その支給を受けて乏しい収入を補っていました。その審査員の中にはプラハ生まれでウィーンで活躍していた音楽評論家のエドゥアルト・ハンスリック(1825〜1904)やブラームスがいましたが、特にブラームスはドヴォルザークの才能を高く評価して出版社のジムロックにドヴォルザークを紹介し、以後も生涯にわたってドヴォルザークを支援していくことになりました。

ジムロック社は、先に出版されていたブラームスの《ハンガリー舞曲集》の成功を受けて、ドヴォルザークにもこうした民族的舞曲集の作曲を要望しました。ドヴォルザークはそれに応えて作曲にとりかかり、



1878年の3月から5月にかけて《スラヴ舞曲集第1集 作品46》が、その後1886年の6月に《スラヴ舞曲第2集 作品72》がジムロック社から出版されました(上の写真は第1集初版の表紙)。

《スラヴ舞曲集》は、はじめはブラームスの《ハンガリー舞曲集》と同様にピアノ連弾曲集として出版され、発売直後から人気を博しました。この成功を受けてドヴォルザークは1878年の8月に第1集の、1887年の1月に第2集の管弦楽編曲を完成させましたが、こちらも好評を博してたちまち世界中のオーケストラのレパートリーとなりました。

第1集も第2集も、連弾版の初演については明らかになっていません。一方で管弦楽版は、第1集の第1、3、4番が1878年5月16日にアドルフ・チェフの指揮によって、第2集の第1、2、7番が1887年1月6日にドヴォルザーク自身の指揮によって、いずれもプラハで行われています。

《スラヴ舞曲第1集》ではボヘミアの代表的な舞曲であるフリアント、ソウセツカー、スコチナーなどが取り上げられていますが、ドヴォルザークは民族舞曲のリズムや特徴を生かしつつも、舞曲集の旋律は自身で独自に作曲しています。一方で《スラヴ舞曲第2集》ではチェコの舞曲は少数に止めて、スロヴァキアやポーランド、ブルガリアといった広くスラヴ各地域の音楽の特徴が取り上げられています。

そんなわけで、ドヴォルザークの誕生日である今日は《スラヴ舞曲第1集》から、一番有名な第2番ホ短調ではなく、早くに管弦楽編曲された第1番ハ長調をお聴きいただきたいと思います。チェコの代表的舞曲であるフリアントのリズムに基づく躍動感あふれる作品を、サイモン・ラトル指揮によるベルリン・フィルハーモニーの演奏でお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

贅沢シャインマスカットワッフル@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2022年09月07日 18時18分18秒 | カフェ
今日は私にとって、かなり過酷な一日でした。というのも今日の小学校勤務中、1・2時間目はエアコンの無い図工室での図工、3時間目はこれまたエアコンの設置されていない家庭科室での裁縫、4時間目は外で体育、5・6時間目は風通しの悪い体育館で体育と、とにかく給食の時間以外、一度もエアコンの恩恵に浴することなく終わったのです。

普段は勤務終了時にも水筒の水がいくらか残っているのですが、今日はさすがに暑さに耐えかねて飲みきってしまいました。決して支援クラスを決める先生が意地悪したわけではないのですが、こうも暑さの伴う環境が続くとさすがに身体に堪えます…。

そんな小学校の汗だく勤務を終えてグダグダの状態でエアコンの効いた小田急線に乗り込んで、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

9月に入って月替わりメニューも一新していたので、今日はその中から



『シャインマスカットワッフル』をオーダーすることにしました。

お店の看板メニューであるクロワッサン生地のワッフルにキャラメルソースがかけられ、大粒の旬のシャインマスカットと手作りのコンフィチュールがトッピングされています。シャインマスカットの甘酸っぱい風味と張りのある果皮の食感がコンフィチュールやほろ苦いキャラメルソースとマッチして、ワッフルの美味しさを引き立てています。

例年9月に出されている『ぶどうのワッフル』と比べるとかなり贅沢なワッフルなので、お値段もかなり贅沢なものとなっています(汗)。いかほどなのかは…お店に行って確かめてください(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見た目以上に本格的!エレキギター型ハサミ

2022年09月06日 19時10分10秒 | 音楽
今日、我が家に新たな文房具が届きました。それが



これで、箱から取り出すと



こんな感じです。

これ、実はエレキギターの形をしたハサミで、糸倉の形をしたキャップを取ると



こんな感じになります。また専用のスタンドも付いていて、



こんな風にディスプレイすることもできます(笑)。

これだけ見ているとお賑やかし文具に見えますが、このハサミは刃物の生産で有名な岐阜県関市で作られたもので、切れ味はなかなかの鋭さです。刃にはフッ素加工が施されていて、ガムテープ等の粘着テープを切っても粘着が付きにくくなっています。

これは音楽雑貨を扱う『株式会社プレリュード』で購入することができます。私はブラックを買いましたが、他にレッド・ブルー・ホワイトもありました。

今までは小学校で普通のハサミを使っていましたが、明日からこのハサミを持っていこうと思います。ただ、とりあえず子どもたちに捕られてしまわないように気をつけようと思います…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はヨハン・クリスティアン・バッハの誕生日〜モーツァルトに影響を及ぼした《交響曲ト短調作品6-6》

2022年09月05日 17時45分17秒 | 音楽
今日も日中は暑くなりました。朝夕が涼しいだけに、日中の厳しい暑さが身体に堪えます…。

ところで、今日9月5日はヨハン・クリスティアン・バッハの誕生日です。



ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜1782)はヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750)の末子としてドイツに生まれた作曲家・クラヴィーア奏者で、イタリアでデビューした後で主にロンドンに住み、オペラ作曲家として、またコンサートの開催によって名声を得ました。

父の大バッハがドイツ国内で生涯を終えたのと違い、ヨハン・クリスティアン・バッハはイタリアで人気を得た後にロンドンに移住し、そこで成功を勝ち得たために『ロンドンのバッハ』とも呼ばれていました。そのロンドンでは幼いモーツァルトとも対面し、その後のモーツァルトの作品にも多大な影響を与えました。

ヨハン・クリスティアン・バッハの時代はバロック音楽が終焉し、古典派に連なる新たな音楽の波がやってきていました。オペラの序曲であるシンフォニアから独立したソナタ形式での交響曲などが作られ、やがてハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンへと発展して行くこととなります。

大バッハに比べ、とかく息子たちはその存在が忘れられがちです。しかし、現在主流の音楽は実はこの時代に萌芽してきたものと言っても過言ではなく、逆に言えばヨハン・クリスティアン・バッハがいなければ古典派の姿はもっと違ったものになってしまっていたかも知れないのです。

そんなヨハン・クリスティアン・バッハの作品から、今回は《交響曲ト短調 作品6-6》を取り上げてみようと思います。この曲はヨハン・クリスティアン・バッハが1770年頃にオランダ・アムステルダムで出版した『6つの交響曲作品6』の最終曲で、第1番が1764年に完成していたことが判明しているので、この作品もそれに近い頃に完成したものと思われています。

1764年というと、ちょうどモーツァルトがロンドンに滞在していた時期と重なります。実際にモーツァルトがロンドン郊外のチェルシーで書いたスケッチブックにはト短調の交響曲の断片が収められていて、そこには映画『アマデウス』のオープニングテーマとして有名になった《交響曲第25番ト短調》の特徴が見出されていることから、モーツァルトの創作にヨハン・クリスティアン・バッハのこの交響曲が少なからず影響を及ぼしているのではないかと言われています。

そんなわけで、今日はヨハン・クリスティアン・バッハの《交響曲ト短調 作品6-6》をお聴きいただきたいと思います。モーツァルトの名交響曲に影響を与えたという、疾走感あふれる前古典派の名作をお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はグリークの祥月命日〜鑑賞教材でもある《ペールギュント》第一組曲

2022年09月04日 17時17分17秒 | 音楽
今日は朝夕はそこそこ涼しくなったものの、日中は30℃前後まで気温が上がりました。お彼岸が近づいているとは言え、なかなか秋らしい秋はやってきません。

ところで、今日9月4日はグリークの祥月命日です。



エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(1843〜1907) は、ノルウェーを代表する作曲家の一人です。日本ではドイツ語読みのエドヴァルド・グリーグと呼ばれることが多いですが、現地ノルウェーでの発音はどちらかというと「エドヴァル・グリッグ」のようになります。

グリーグはスウェーデン統治下だったノルウェーのベルゲン市街の家に、5人兄弟の第4子として1843年に生まれました。幼少期からヴァイオリンに親しんだグリークは、1858年にヴァイオリニストのオーレ・ブルに才能を見出され、3年半の間ライプツィヒ音楽院で作曲とピアノを学ぶこととなりました。

1863年からの3年間はデンマークのコペンハーゲンに居住して作曲家ニルス・ゲーゼに学び、ここで交響曲やピアノ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタ第1番等の初期の作品が作られました。1867年には、クリスチャニア(現オスロ)のフィルハーモニー協会の指揮者に就任した後に《十字軍の王シーグル》のための劇音楽を作曲し、グリーグの重要な作品である《抒情小曲集》の第1集も出版しました。

1877年から1880年までベルゲン東方のハダンゲル(ハルダンゲル)地方に住んだグリークは、次第に民族音楽、民族楽器へ傾倒していきました。1884年にベルゲン近郊のトロールハウゲン(妖精の丘)に住家を建築すると、ベルゲン出身でデンマークにて活躍した劇作家ルズヴィ・ホルベアの生誕200年のためにピアノ組曲《ホルベアの時代から》を作り。翌1885年には弦楽合奏に編曲しました。

そんなグリークでしたが、1901年頃から次第に健康状態が悪化していきました。そんな中でも《抒情小曲集》第10集を出版しましたが、1905年にノルウェーがスウェーデンから独立したことを見届けた後、1907年の9月4日に心不全のためベルゲン市内の病院で亡くなりました(享年64) 。

さて、グリークといえば何をおいても《ピアノ協奏曲イ短調》が有名ですし、弦楽器奏者としては組曲《ホルベアの時代から》も重要なレパートリーですが、今日は劇付随音楽《ペール・ギュント》をご紹介しようと思います。

《ペール・ギュント》作品23 はグリーグの代表作の一つで、ヘンリック・イプセンの戯曲『ペール・ギュント』の初演のために作曲した劇付随音楽です。そこから管弦楽のための組曲が2つ編まれていて、特に第一組曲は中学校音楽の鑑賞教材にもなっているので、聴けば分かっていただける方も多いかと思います。

1867年にイプセンが書いた『ペール・ギュント』は、落ちぶれた豪農の息子で母オーセと共に暮らしている夢見がちな男ペール・ギュントの生涯を描いた戯曲です。元は上演を目的としないつもりだったイプセンでしたが、後に舞台で上演することとなりました。

本来は舞台向きでないこの作品の上演に当たって、イプセンは音楽をつけることによって本の弱点を補うことを考えました。そこで1874年に、当時作曲家として名を上げつつあった同国人のグリーグに劇音楽の作曲を依頼したのです。

当初グリーグは、自分の作風が小品向きで劇的でスケールの大きな舞台作品には向かないと考えていたので、一旦は依頼を断わろうとしました。しかし、提示された報酬額と民族的な題材への作曲に興味を引かれたこともあって作曲を引き受け、翌1875年に作品を完成させました。

『ペール・ギュント』の舞台上演は更に翌年の1876年2月24日に、クリスチャニア(現オスロ)の王立劇場で初演が行われました。上演はイプセンの狙い通りに音楽のおかげもあって成功を収めましたが、近代的で風刺的なイプセンの戯曲に対してグリーグの音楽がロマンティック過ぎることへの批判もあったようです。

グリーグはその後、再演のたびに《ペール・ギュント》の改訂を行い、その劇付随音楽の中から1881年に第一組曲、翌1882年に第二組曲が編まれました。その中で、今回は第一組曲をご紹介しようと思います。

《ペール・ギュント》第一組曲は

1、朝の気分
2、オーセの死
3、アニトラの踊り
4、山の魔王の宮殿にて

の4曲からなっています。特に『朝の気分』はCMをはじめとした爽やかさを演出する様々な場面で使われることの多い音楽なので、お聴きいただければ

『あぁ!』

と膝を打っていただけるのではないかと思います。

そんなわけで、グリークの祥月命日である今日は《ペール・ギュント》第一組曲をお聴きいただきたいと思います。その中でも今日は第2曲『オーセの死』を、グリークへのレクイエムとして贈りたいと思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連理の露草とバッハ《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ》第6番ト長調(第2版)

2022年09月03日 18時00分30秒 | 音楽
今日は比較的風の涼しい日和となりました。一見着々と秋が近づいているようにも感じますが、先島諸島付近にある台風11号が週明けあたりに南岸の暑い空気を引っ張り込んでくるようなので、油断はできません。

せめて涼しい風を謳歌しようと外に出てみたら、道端に



2つ重なった連理の露草が咲いていました。今までにも露草の花は見かけていたものの、どういうわけだか今年の露草の花は色が薄いものが多くて撮影していませんでしたが、ようやく理想的に美しい青色の露草を見つけました。

目にも爽やかな露草の花を見ていたら、ふと爽やかな音楽が聴きたくなりました。買い物を済ませて我が家に戻ってからあれこれと物色してみたのですが、今回聴きたくなったのは



バッハの《ヴァイオリンとチェンバロのための6つのソナタ》です。

バッハの《ヴァイオリンとチェンバロのための6つのソナタ》は、バッハがケーテンで宮廷楽長をしていた1717年から1724年までの時期に作曲されたと考えられている作品です。ただし構想自体はそれ以前のヴァイマール期にまで遡る可能性もあるようで、また第6番の幾つかの楽章を含む部分は、バッハがライプツィヒに移った後の1725年頃に改訂されたようです。

 バッハは、1720年前後に、チェンバロを初めて協奏曲の独奏楽器に起用した《ブランデンブルク協奏曲第5番 ニ長調》を作曲しました。《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ》の何曲かは、この《ブランデンブルク協奏曲第5番》と並行して書かれた可能性が高いと考えられています。

バッハのヴァイオリン作品というと『ヴァイオリン作品の旧約聖書』とも称される6曲の《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》に評価が集中しがちです。逆に言えば、ともするとそれ以外のヴァイオリン曲は不当に軽視されてきた向きがあります。

しかし、《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》がヴァイマール期の1715年以前に作曲されたものであることや、ヴァイマール期からケーテン期にかけてと思われる時期に幾つかのヴァイオリン協奏曲が作曲されたという成果を踏まえると、それよりも後に作曲されたこの《ヴァイオリンとチェンバロのための6つのソナタ》は、むしろバッハのヴァイオリン作品のほぼ最後の方に位置していることになるのです。なので、このソナタ集はバッハによる『ヴァイオリンとの取り組みの総決算』という作曲意図が部分的にはあったのではないか…という可能性も十分視野に入れるべき作品なのです。

他のバロック時代のヴァイオリンソナタとこのソナタ集の一番の違いは、ヴァイオリンとチェンバロが対等に活躍するということです。

ヘンデルをはじめとした他のバロック時代のヴァイオリンソナタは主にソロ楽器のヴァイオリンが活躍し、チェンバロ(+チェロorヴィオラ・ダ・ガンバ)は低音でヴァイオリンを支える役目をしていることが殆どです。それに対してバッハのソナタはヴァイオリンとチェンバロの右手・左手それぞれにメロディが登場し、まるてモーツァルトやベートーヴェンのヴァイオリンソナタのように対等に渡り合います。

6曲それぞれに特徴があるのですが、中でも最後に収録された第6番ト長調はちょっと変わった構造になっています。

他の5曲は緩-急-緩-急という4つの楽章からなっていますが、第6番だけは急-緩-急-緩-急という5つの楽章でできています。しかもヴァイオリンソナタなのになぜか第3楽章はチェンバロソロで、ヴァイオリンは全休止になっているのです。

この第6番は作曲期間が6曲の中で最も長く、ヴァイマル時代からライプツィヒでの最終稿までに2回の大幅な改訂が行われました。この第3楽章のチェンバロソロはその改訂の際に差し替えられたようで、改訂前の第2版の第3楽章に充てられていたシチリアーノの楽譜も異版として伝わっています。

ト長調という調性もあって、第1楽章や終楽章は爽やかな印象の音楽が展開されていきます。第2楽章と第4楽章はメランコリックなメロディが印象的で、第3楽章のチェンバロソロはホ短調の快活な楽章となっています。

そんなわけで、今日はバッハの《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第6番ト長調》のチェンバロソロが差し替えられる前の第2版をお聴きいただきたいと思います。佐藤俊介氏のバロックヴァイオリンとディエゴ・アレスのチェンバロによる、爽やかで軽やかな演奏でお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々の小田原七福神・満願辨財天と新展開

2022年09月02日 17時55分17秒 | 神社仏閣
個人的に、今日から小田原の小学校勤務がスタートしました。生憎の空模様の中、久しぶりに早朝の小田急線に乗って小田原に向かうと、少しずつ仕事モードがよみがえってきました。

登校途中、ちょっと寄り道して福泉寺というお寺に向かいました。こちらには



小田原七福神の一柱である満願辨財天が祀られています。

こちらの辨財天は、



我が家の仏壇にお祀りしているのと同じ八臂の宇賀辨財天です。中を窺うと外陣と内陣を隔てる引き戸がほんの少し開いていて、その間から辨財天の御尊顔を拝することができるようになっています。

朝のお勤めの後の香の薫りが漂う中で、一ヶ月ぶりの参拝をしました。清々しい気持ちで小学校に出勤し、久しぶりに支援級の子どもたちとも再会しました。

今日は午前中授業で給食も無かったので、お昼過ぎには退勤しました。すると、小田原駅のホームで電車を待っていた時にスマホに着信がありました。

画面には『小田原市教育委員会』の文字が…。それを見て

『え?私なんかやらかしたか…?』

と思ったのですが、とりあえず電話に出てみました。

恐る恐る出てみると

「10月から、昔勤務していただいていた『放課後子ども教室』を再開するので、是非ともまたお願いしたいと思います。」

とのことでした。有り難いことに、来月から仕事が増えることになりそうです。

それにしても、『教育委員会』という表示を見ただけでピリつくあたりは、何とも情けない限りです…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はパッヘルベルの誕生日〜実に緻密かつ巧妙な《カノンとジークニ長調》

2022年09月01日 16時45分16秒 | 音楽
今日から9月に入ったとはいえ、今日もまた一段と蒸し暑くなりました。本来ならば今日から小田原の小学校が始まっているのですが、私の勤務日は明日からなので、今日はそれに備えて散髪してきました。

ところで、今日9月1日はヨハン・パッヘルベルの受洗日です。



ヨハン・パッヘルベル(1653〜1706)はバロック期のドイツの作曲家であり、南ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者で、教師でもあります。宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作し、コラール前奏曲やフーガの発展に大きく貢献したところから、バロック中期における最も重要な作曲家の一人とされています。

パッヘルベルはニュルンベルクワイン商を営む父と、その後妻との息子として生まれました。正確な誕生日は分かっていませんが、9月1日に教会で洗礼を受けている記録が残っていることから、恐らく8月下旬頃に誕生したのではないかと見られています

パッヘルベルの音楽は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーなどの南ドイツの作曲家や、ジローラモ・フレスコバルディなどのイタリアの作曲家、さらにはフランス、ニュルンベルク楽派などの作曲家からの影響を受けています。パッヘルベルの音楽は技巧的なわけではなく、例えば北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデのような華麗な奏法や大胆な和声法を用いることが少ない代わりに、旋律的・和声的な明快さを強調した明快で単純な対位法を好んで用いました。

さて、パッヘルベルといえば何をおいても《カノン》ということになろうかと思います。いくら拙ブログがひねくれているとは言いながらこればかりは避けて通ることはできませんが、正確には《3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調》といいます。

パッヘルベルはオルガン等の鍵盤楽器作品で有名ですが、教会音楽や室内楽の重要な作曲家としても知られています。しかし残念ながらパッヘルベルの室内楽曲の楽譜は殆ど残っておらず、生前に出版されていたパルティータ集を除くと、写本として残るいくつかの作品が知られているのみです。

《3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調》もそうした曲のひとつであり、ベルリン州立図書館に19世紀の写本が唯一残されています(見出し画像参照)。作曲の経緯はまったく知られていませんが、パッヘルベルの門人でヨハン・セバスティアン・バッハの長兄であるヨハン・クリストフ・バッハが1694年10月23日に開いた結婚式にパッヘルベルが出席しているので、この機会に作曲されたのではないかとも言われています。

カノンはキャノン=大砲に由来するもので、大砲が放たれた時に音がこだますることを模倣したものと言われています。分かりやすく説明するために、『かえるのうた』のような『輪唱』といわれることがあります。

前半の《カノン》は



『レ-ラ-シ-ファ♯-ソ-レ-ソ-ラ』という通奏低音にのって、3人のヴァイオリンが2小節ずつズレながらメロディをつむいでいきます。

カノンというと大概2つの声部で追いかけっこをすることが多く、それ以上声部の数が増えるとカノンすること自体が難しくなってフーガになっていく傾向が見受けられます。しかしパッヘルベルはそれを3つの声部で、しかも破綻なく追いかけっこが成立するようなカノンを展開させることに成功しています。

そしてこれもすごいことなのですが、カノンのメロディそのものが非常に美しくよくできています。単純に一つの声部を取り出して演奏しても実に典雅で弾きがいのあるものとなっていて、辻褄を合わせるための経過部のようなものが殆どありません。これは実はすごいことなのです。

カノンとセットで続くジークはイギリス発祥の快活な舞曲ですが、前半に全く同じメロディを追いかけっこしていたカノンとは対称的に、ジークでは各声部がフーガとなってメロディをつむいでいきます。このあたりの工夫も、心憎い演出です。

こうしてみると、パッヘルベルの室内楽作品が現代に残されていないことが惜しまれてなりません。もしそれらが残されていたなら、今日のバロック音楽のレパートリーは更に豊かなものとなったことでしょう。

そんなわけで、パッヘルベルの洗礼日である今日は《3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーク ニ長調》をお聴きいただきたいと思います。ロンドン・バロックの演奏と楽譜動画とで、パッヘルベルが綾錦の如く織り上げた、イージーリスニングに留めておくには勿体ない緻密なアンサンブルをお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする