じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

司馬遷「史記」より「四面楚歌」

2021-08-04 20:53:55 | Weblog
★ 感染爆発に歯止めがかからず、政府は中等症(酸素吸入が必要)でも自宅療養の方針を打ち出した。早速、野党のみならず与党からも(衆院選に向けてのポーズかも)批判が噴出。撤回を迫るが、菅総理は方針を取り下げる気はないらしい。

★ 田村厚労大臣は「フェーズが変わった」「平時ではない」をくり返すが、相変わらずの「先手先手」の発言が虚しい。どう見ても「後手後手だ」。最近の政治を見ていて思うのは、政府高官(官房長官や副官房長官)や官邸官僚の暴走だ。自宅療養のサポート体制がないままにどうして、軽々しく「自宅療養」などと言えるのか。家庭内感染はどうするのか。自助、自己責任と見捨てるのか。

★ ともかく、菅内閣は四面楚歌。ということで、司馬遷の「史記」から「四面楚歌」を読み直してみた。

★ 秦の始皇帝の死後、各地で反乱が起こった。中でも、楚の項羽と漢の劉邦(沛公)が有力。両者は函谷関で待ち合わせ共に秦の都・咸陽を落とすことになっていたが、先に着いた劉邦が咸陽を落とし、関所を封鎖してしまった。更に、自ら覇権を握ろうとしていた。これに「項羽は大いに怒って」、関を攻め破る。一気に劉邦を討とうするが、仲を取り持つ人がいて、劉邦は和解の席に臨む。これが「鴻門之会」。

★ 劉邦は「鴻門之会」で命に危機に瀕しながら、危うく難を逃れた。それから4年。悪政で民心の離れた項羽軍を劉邦軍が包囲する。兵は少なくなり食糧も尽きようとする項羽軍。夜、劉邦の漢軍から楚の歌が聞こえてくる。楚はもはや漢に占領されたのか。形勢利あらずと悟った項羽は別れの宴席を設ける。

★ そしていよいよ、最後の戦いに臨み、項羽は自ら首をはねて死ぬ。

★ 宿場役人が項羽に、かつて決起した地を目指し一人逃れるよう勧める場面。しかし項羽は笑ってこれを拒む。自ら率いた若者はもはや一人も残っていない。彼らの父兄に面目ない。彼らが仮に何も言わなくとも、私は自分の心に愧じると。

★ どの場面もドラマチックだ。さすが司馬遷だ。
コメント