「私は無信論者」と豪語する人が最後の最後、つまり自力克服困難を迎えた時、目に見えん物に救いを求めるってよくある。「神様、仏様、ご先祖様」と。特に「死」と向き合った場合。恥ずかしい事では。何でも初めて体験する事は不安。が結局最後に頭を下げるんなら常日頃から。人間関係でも同じ状況が。
父他界後「先代住職時代から嫁の子授け祈願を7年もしてきたのに何故」と母親が不服を。「お母さん、あなたが産むんかい。この7年息子夫婦は1度も顔を出さん。『本当に欲しかったら自分で足を運べ』と言いなさい」と。直後に解任。驚く家族に「偶然かもよ。だが人任せは所詮、人任せ。何でもだ」と。
嫁姑問題は永遠の課題と釈尊も。結局息子の取り合い。こんな話が。妻と母親が雁首揃え詰め寄り「私とお母さんが海で溺れていたら、さあ、あなた、どっちを先に助けるか」と。困り果てた主人は「俺が先に溺れ死ぬ」と。妻は現在に、姑は過去に生きている人、噛み合わんが当然。間に入るご主人、可哀想。