イエスはご自身が人々に命を与える者、「それが神のパンだからです」と説明されると、人々は、「主よ、私たちにそのパンをいつもおたえ下さい」と、言いました。イエスは何と説明されるでしょうか。
イエスは次のように説明されました。「私は命のパンです。私のもとに来る者は少しも飢えず、私に信仰を働かせる者は決して渇くことがありません。しかし私は言いました、あなた方は確かに私を見た、それなにに信じないと。父(エホバ)が私にお与えになるものは皆私のもとに来ます。そして、私のもとに来る者を、私は決して追いやったりはしません。私は、自分の意志ではなく、私を遣わした方(エホバ)のご意志を行うために天から来たからです。私にお与えになった全てのもののうち私がその一つおも失わず、終わりの日にそれを復活させること、これが私を遣わした方(エホバ)のご意志なのです。というのは子(イエス)を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと、これが私の父(エホバ)のご意志だからです」。
そこでユダヤ人たちは、イエスが「私は天から下って来たパンである」と説明されたことで、イエスに対しつぶやき始めました。彼らはイエスを人間の親の息子に過ぎないと考えていたので、ナザレの人々と同じように反対し、「これはヨセフの子のイエスである、私たちはその父も母も知っているではないか。今になって、「私は天から下って来た」などと言うのはどうしてか」と、言いました。
これに対してイエスは次のように答えられました。「互いどうしつぶやくのをやめなさい。私を遣わした方である父(エホバ)が引き寄せて下さらない限り、誰も私のところに来ることはできません。そして私は、終わりの日にその人を復活させるのです。預言者たちの中に、「「そして彼らは皆エホバに教えられるであろう」」と、書いてあります。父(エホバ)から聞いて学んだ者は皆私のもとに来ます。神から出た者の他に、誰かが父(エホバ)を見たというのではありません。神から出た者(イエス)は父(エホバ)を見ました。きわめて真実にあなた方に言いますが、信じる者は永遠の命を持っているのです」。
イエスはさらに次のように繰り返されました。「私は命のパンです。あなた方の父祖が荒野でマナを食べましたが、それでも死にました。これは天から下って来るパンであり、誰もそれを食べる者が死なないためのものです。私は天から下って来た生きたパンです。だれでもこのパンを食べるなら、その人は永遠に生きます」。そうです、神エホバが遣わしたイエスに信仰を働かせるなら永遠の命を持てるのです。マナにせよ他のどんなパンにせよ、永遠の命をもたらすことはできません。
天からのパンに関する論議は、人々がカペルナウムの近くでイエスを見つけてから程なくして始まったようです。ところが、その論議は収まることなく、イエスがカペルナウムの会堂で教えておられるときに最高潮を迎えます。どのようなことが生じるでしょうか。その内容は次回にお伝え致します(ヨハネ6:25~51,59.詩編78:24.イザヤ54:13.マタイ13:55~57)。
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落ち葉掃く 庭に舞いくる 落葉かな 今日の一句

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