最近になって気づきました。
上手な人の演奏を聴いて、いいなあと感じたときに、
それと同じ音色を出すコツに早く気づくのが
上達の近道なんじゃないかと。
教わった手順をなぞるのに必死なうちは、
気持ちの込めようがないよなあと思います。
津軽三味線というと雪、それも吹雪のイメージが一般的なんだろうけど、
でも実際に津軽に行くと、厳しい冬ももちろんあるんだろうけど、
春は桜やリンゴの花がきれいで、夏はお祭りがあちこちであって、
秋は紅葉がきれいです。
日本海の荒波ばかりじゃなく、岩木山もあれば奥入瀬川もある。
西海岸もあるし、十三湖もある。
だから津軽の表現を冬に限定する必要はないと思うんですよね。
紅葉の間を流れる奥入瀬渓流をイメージした津軽三味線だってありだと思うんです。
でも、一般の人はそうは思わないから、
雪をイメージして弾いた方が聴いてくれる人とリンクしやすんだろうな。
自分のイメージする雪は、やっぱり北海道の雪なんですよね。
田んぼに降る雪じゃなくて、牧草地に降る雪。
地平線のかなたまでずっと雪。
手にとると指の間からサラサラとこぼれ落ちる。
そんな雪なんです。
それでも思い浮かべて弾くと、いい意味で変われるのかな。
***
話は変わるけど、
前の先生は、「寂寥(せきりょう)感を出せ」とよく口にされてました。
今の師匠は「哀れな」という言葉をしばしば使います。
津軽三味線を弾く人にとっては共通のテーマなのかな。
確かにふっとつぶやくように弾かれると、
心にくるときがある。
やりきれなさ、とか、何かに対するうらみのようなものを感じる瞬間が確かにあります。
そういう楽器って珍しいですよね。
生い立ちがそうさせるのか。
リズムと音程が合ってるのは、聴く側からすればあたりまえ。
(弾く側にとってはとても難しいんだけど)
そこから先の領域で、何を出せるかが本来の奏者の力量なんだそうです。
しっかしその境地はな~...
なんかずっと先だぞ。
...遠いなあ。
上手な人の演奏を聴いて、いいなあと感じたときに、
それと同じ音色を出すコツに早く気づくのが
上達の近道なんじゃないかと。
教わった手順をなぞるのに必死なうちは、
気持ちの込めようがないよなあと思います。
津軽三味線というと雪、それも吹雪のイメージが一般的なんだろうけど、
でも実際に津軽に行くと、厳しい冬ももちろんあるんだろうけど、
春は桜やリンゴの花がきれいで、夏はお祭りがあちこちであって、
秋は紅葉がきれいです。
日本海の荒波ばかりじゃなく、岩木山もあれば奥入瀬川もある。
西海岸もあるし、十三湖もある。
だから津軽の表現を冬に限定する必要はないと思うんですよね。
紅葉の間を流れる奥入瀬渓流をイメージした津軽三味線だってありだと思うんです。
でも、一般の人はそうは思わないから、
雪をイメージして弾いた方が聴いてくれる人とリンクしやすんだろうな。
自分のイメージする雪は、やっぱり北海道の雪なんですよね。
田んぼに降る雪じゃなくて、牧草地に降る雪。
地平線のかなたまでずっと雪。
手にとると指の間からサラサラとこぼれ落ちる。
そんな雪なんです。
それでも思い浮かべて弾くと、いい意味で変われるのかな。
***
話は変わるけど、
前の先生は、「寂寥(せきりょう)感を出せ」とよく口にされてました。
今の師匠は「哀れな」という言葉をしばしば使います。
津軽三味線を弾く人にとっては共通のテーマなのかな。
確かにふっとつぶやくように弾かれると、
心にくるときがある。
やりきれなさ、とか、何かに対するうらみのようなものを感じる瞬間が確かにあります。
そういう楽器って珍しいですよね。
生い立ちがそうさせるのか。
リズムと音程が合ってるのは、聴く側からすればあたりまえ。
(弾く側にとってはとても難しいんだけど)
そこから先の領域で、何を出せるかが本来の奏者の力量なんだそうです。
しっかしその境地はな~...
なんかずっと先だぞ。
...遠いなあ。