加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-①(No.1401)
9月29日(土)金沢市ボランティアガイド「まいどさん」16期生の「よりまっし16会」で毎年1回は加賀藩ゆかりの地を訪ねる勉強会を行っている。昨年に続き富山県の松倉城、愛本跳ね橋、富山城を訪ねた。
加賀藩は最大石高時には119.5万石(今の石川県、富山県全域)であった。その後、親藩の富山藩(10万石)、大聖寺藩(10万石)ができた。
■写真は松倉城址駐車場と看板
◇松倉城址(魚津市)
越中最大規模を誇り、難攻不落の城として知られていた「松倉城」の跡地。魚津市南部の松倉山山頂にあり、空堀で区切られた5つの郭が南北に並び、長さが1kmにも及ぶ巨大な城郭であった。室町から江戸時代にかけては背後の松倉金山で金の採掘が盛んに行われ、その経済力で中世には勢力を誇っていたという。多くの武将がこの城を巡って戦い、戦国末期まで新川郡の要としての役割を果たしてた。上杉家に実権がうつり織田信長に攻められた魚津城に拠点が移ってからは政治的、軍事的役割が低下し衰退していった。
■写真は松倉城址平面図
〇松根城の変遷
松根城が史上に初めて登場するのは健武5年(1338)のことで、越中守護職・普門(井上)俊清が加賀へ向かう越後南朝軍を防ぐために大半が討たれ松倉城に籠ったと「太平記」にある。
<古松倉城期>
南北朝時代から16世紀初頭までは、平ノ峰(標高430m)が軍事的な要害として利用された。
<新松倉城期>
永正17年(1520)の新谷合戦での敗北以降、椎名氏は本拠を海岸の魚津から鹿野集落背後の城山(標高418m・現松倉城跡)移したと考えられる。
<上杉支配期>
永禄13年(1570)以降は松倉城が越中支配の最大拠点となるため、越後からの武将(河田長親)らが多数在番する事態となり、兵員収容のためにも広いスペースが必要となった。そうした将兵のスペース駐屯として、大見城平が利用された。
■写真は本丸跡
■写真は本丸跡より富山湾を見る
■写真は本丸跡より立山連峰剣岳方面を見る
■写真は二の丸跡
■写真は二の丸跡より
□松倉城跡(とやま観光ナビ)ホームページ
参考資料:インターネット、宮武氏資料
撮影日:2018.9.29
(つづく)