金沢の観光スポットレポート その1142(No.1597)
◇高尾城跡探訪(金沢市) ② 御廟谷、額谷石切り場
〇御廟谷地区
この地区は、御廟谷と呼称され、富樫一族の墓域と伝えられ地。遺構は山腹に構築されているが、七瀬川の支流に挟まれた山魂で、平野部からの侵入は深い谷域を渡らなければ到達できない地勢で、砦を構築するのに恰好の場所だと想定される。
■写真は御廟谷表柱
■写真は登山道
特に寺屋敷とされる一廓は、一段高い所に位置し、周囲を窺うのには絶好の位置で寺院というよりも館であった可能性が高い。また、「ダイエンジ」「ウインジ」等の寺院と想定される地名も残りことから、いくつかの寺院があったと考えられる。
■写真は寺屋敷とされる一廓
「中世の墓域」とされる地は、破壊されていて、現在、五輪塔などの墓石の一部が一か所に集めれ供養されている。この額谷地区は、富樫一族の額氏家臣の金子氏の縄張りであったため、ゆかりの地と考えて間違いないと思われる。
長享2年(1488)6月7日、高尾城での攻防で討死した額丹後、同八郎四郎の遺骸をこの地に葬ったとされている。この御廟谷地区は、昭和14年(1939)に石川県指定史跡に指定されている。
■写真は御廟谷
〇額谷石切り場跡
藩政期から昭和中期にかけて、市内の山間部の多くの村々で生活用具や家の土台石などの素材として、大量の石が切り出された。
この石切りの作業を通じて石工の技術が向上し、辰巳用水増築にも役立ったという。ここはその石切り場跡の一つで、確認できる洞穴が2~30か所の洞穴があり、規模が大きく保存状態も比較的良好である。
ここから産出されて石材は額谷石(ぬかだんいし)と称され、主にかまど、七輪、消化ガメイロリ石、風呂釜等に使用された。
戦後の急速な近代化により、セメント、コンクリートブロックやガスの普及により、石切りは消滅した。
またこの洞穴は、第二次世界大戦の終結直前に、三菱工業の航空機エンジン部門の疎開先として、突貫作業で地下軍需工場に改造され、機械取付も行われたが、終戦を迎え稼働には至らなかった。
■写真は額谷石切り場跡
□北国街道・富樫館跡 中世の歴史に触れる- 1① ページ
□北国街道・富樫館跡 中世の歴史に触れる- 1②旧北国街道 ページ
□撮影日:2019.4.5
参考資料:宮武氏資料、インターネット他
(高尾城跡探訪 完)