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金沢の観光スポット体験レポート その400(No.626)
◇野田山墓地、大乗寺巡り ③
まいどさん16期生「よるまっし16会」は2回目の野田山
墓地、大乗寺を巡った。
○玉取り獅子
明治20年8月建立の田守呉服店の墓で、口にくわえた反物
に蓮如の六字をたらし、一家の幸せと繁栄を祈ったもの。
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■写真は田守家の墓
○筆墓
文政2年(1819)4月6日没の墨清の門人による供養墓で、一
目で判る筆先と、文鎮、巻紙等等が刻まれている。
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■写真は筆墓
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■写真は野田口
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/35/2275a8438b99bb97ad6d838fee3f7d8c.jpg)
■写真は能家の墓
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○太郎田屋与右衛門(たろうだよえもん)の墓
太郎田屋一世・長谷部茂兵衛は金沢で造り酒屋をしていた。二
世・茂兵衛は明歴元年(1655)染業に転じ、家号を太郎田屋と
した。三世・紺屋棟取太郎田屋与右衛門は、正徳2年(1722)
年に帰郷した宮崎友禅斎を寄寓さた。友禅斎は享保5年(1720)
世話になった礼に与右衛門の倅、茂平に染軸の製作指導をした
のが、年号入友禅染として日本最古といわれる「紫式部石山観
月図」と言われている。この作品は加賀染と友禅染が合流した、
加賀友禅の源流といわれています。
茂平はこの年家督を相続し、四世・太郎田屋与右衛門を名乗り
延享4年(1747)没。
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■写真は太郎田屋家の墓
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■写真は長坂用水
○嵐 冠十郎四世(あらしかんじゅうろう)の墓
三世・嵐 冠十郎(河合吉三郎)の次男として京都で生まれ、本
名を河合理之助。小さい頃から芝居が好きで、京都に出て修行
し芝居役者となり、安政4年(1857)年、三世が金沢へ迎えら
れた時理之助も伴われてきた。元治元年(1864)年父没後再び
京都に行き、四世・嵐璃寛に入門し璃之助と称した。
明治3年(1870)年金沢に戻り、川上南芝居の座元となり、や
がて市川九蔵(七世・団蔵)一座に入り冠十郎を襲名し、金沢
に本拠を持ち、香林坊福助座に出演。大正5年(1916)からは、
下新町の福助座に出演、大正7年(1918)師匠の子、徳三郎が
璃寛を襲名する際、大阪に出て指導にあたり、大正9年(1920)
夏まで阪神の一流劇場に出演、大正12年(1923)年福助座で
引退興業。芸域の広い加賀歌舞伎最後の人物で大正14年(1925)
年没。
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■写真は嵐 冠十郎四世の墓
○明治志士の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/77/44093409f528bb9c9e22a308390af746.jpg)
■写真は明治志士の墓
前田家野田山墓地紹介ページ①
前田家野田山墓地紹介ページ②
(つづく)