今日これから述べることは、もしかすると、私の独断と偏見かもしれません。
他の言葉で言い換えるなら、単なる、大変お世話になった医師への愚痴。
少々恥ずかしいですが、夫が入院中の時から、納得のいかないまま、私の心の内でくすぶり続けていたことを、正直に書かせていただきますね。
読み流してくださいませ。
私は、いつも娘たちに言っていました。
「食べることでしか、パパは命を繋げないの。
だから、いろいろ工夫をして、少しでも食べ物を口にいれて上げるようにしてね」
と。
病院食だけでなく、消化の良いもの、夫の好物を、せっせと私は運びました。
嚥下肺炎を起こさないように、それも、いろいろ工夫を凝らしました。
それ以来、数週間、せき込むことは一切ありませんでした。
今日もまた桜の画像をアップします。天まで届けの思いで
三十数年来のお付き合いが続くママ友さん達と、食事会後、お花見をした六本木のミッドタウンの光景です。
夫の死因は、入院保険の診断書に書かれた説明によると、衰弱死のようです。
肺炎でも、敗血症でも、心不全でもありませんでした。
まだ生き続けたいとの強い夫の思いが、私には伝わってきましたから、その願いを叶えるべく、
あらゆる手当をしてほしい、と願っていたのに・・・・・。
私たち家族も、そのために、一生懸命心を尽くしました。
ところが、病院では栄養補給の点滴すらしてもらえなかったのです。
私がその理由を尋ねると、「栄養補給をすると癌が大きくなるから」と言われました。
それは覚悟で、抗がん剤の投与も中止しているのにです。
肝臓がんを五年半前に患って以降、服用し続けていた十種類くらいのお薬とサプリメントも、亡くなる半月ほど前から、急に中止となりました。
それも、家族への断りは一切ありませんでした。
ある日病室を訪ねると、薬の袋がひとまとめにしてホッチキスで止められていました。
その理由を、また尋ねると、
「飲んでもあまり意味がありません」
との事。
本当にそうでしょうか。
私にはその様には思えませんでした。
五年間に亘って、夫の体調を整えてくれていた薬です。
すべてを突然中止すれば、体が変調をきたし、弱っていくのは当然ではないでしょうか。
亡くなる一月程前の腫瘍マーカーは幾分上がって、確か8くらいでした。
直腸がんは、現状維持のままでした。
1年半ほど前は、数値が28前後の時もありました。
夫の病状は、最悪だったわけでは全くありません。
抗がん剤と併用して投与する薬の種類も、突然変えられてしまったことが幾度も。
家族の承諾もなく、夫の一時的な症状のみを見てです。
自宅療養中、食欲もあり、体調も万全で特別問題がありませんでしたのに・・・・・・。
入院した当日の夜から、急に服用薬が変わり、先生に疑問を投げかけたこともありました。
その理由は、「ご主人が、昨夜とても痛がったから」の一言。
薬を変える時は、事前に家族に相談してください、と度々お願いしても、その対応はその後も改めてもらえませんでした。
モルヒネの投与を始めたときもそうです。
モルヒネは、夫の体には、とてもよく合っていたのでしょう。
気分が良さそうで、食欲も出ました。
次女が、「こんなに元気なパパを見るのは久しぶり」と言って、喜んだほどです。
ところがその翌日、突然、また投与薬が変わりました。
そして、今度は夫の体調がかってないほど、最悪になっているように見えました。
何故また急に、薬が変わったのか、私には全く理解できませんでした。
ですから、事情を話し、元の薬剤に戻してほしい、とお願いしました。
私が付き添っていた午後の昼下がり、若い医師が病室に訪れました。
「ご家族の要望に従い、モルヒネに戻します」
と言われ、それが点滴で投与されました。
するとやはり、夫が少しずつ元気を取り戻し、夕食も割とよく口にしてくれるようになりました。
ところがです。
その翌日からの週末の二日間、夫はほとんど眠った状態となり、食べ物も飲み物も口にできなくなってしまったのです。
週末に付きそう次女と長女に、
「何とか食事を口に入れてあげてほしいの。
工夫をして、根気よく少しづつでも長い時間かければ、パパは食べてくれるから」
と娘たちにお願いしました。
娘たちの答えは、
「そうはいっても眠ってばかりだから、食べさせて上げられないの」と。
土曜付き添っていた次女から、その理由を聞き、その状況が納得できました。
私は、腹立たしさを通り越し、憤りを感じました。
先生のお話だと、夜、夫が痛がったので、眠らせるのが一番良いと思い、モルヒネの量を増やしたとの事。
またまた家族への説明は一切なく、勝手に治療方針を変えてしまわれた先生に対する不信感は頂点に。
週末の二日間、私はいらいらして、気持ちの整理がつかなくなりました。
日曜日も、相変わらず眠ったまま。
食べものも飲み物も、口にほとんどできない状態で時間が経過していったようです。
栄養補給の点滴もしてもらえないままです。
そしてお昼過ぎくらいでしたでしょうか。
長女から、時々無呼吸の症状が現れている、との先生のお話の内容の報告を受けました。。
モルヒネの量を、家族の承諾もなく増やし、夫を眠らせる処置を勝手に採られた先生へのいら立ち。
それが一向に収まらないでいる時に受けた、無呼吸の症状の報告。
私の心は張り裂けそうになりました。
私は、医師にかかているときは、医学情報をネットに頼ることはあまりしません。
医師を全面的に信頼し、その先生の指示通りに動くことが、一番精神的にも楽で迷いもなくていいからです。
T大病院から転院を言い渡され、助教授の医師から紹介を受けた病院の担当医は、若夫婦よりも数歳若い人でした。
そのため、私は転院した当初から不安がありました。
夫の命を、こんな若い先生に預けて大丈夫かしら、と。
その不安は、入院中、増幅する一方でしたが・・・・・・。
また転院するエネルギーもなく、医師への気兼ねもあって、私は抱く疑問や不信感をストレートに語る勇気はありませんでした。。
けれど、できる限り信頼して、素直についていこうとの思いも、そこまで。
あまりに心配で、夫が亡くなる前日は、検索を続け、ネット情報にすがるようにして、日を過ごしました。
すると、ある記事に、モルヒネを打つ対処法に頼りすぎるのは、良くない。
それが理由で、無呼吸となり命を落とすこともある、といったような事が書かれていました。
私は、心が張り裂けんばかりのいたたまれない心境から、娘に電話をし、言いました。
「モルヒネの治療に戻してほしいとはお願いはしたけれど、量を増やすように頼んだ覚えは全くない、と先生に伝えてほしい」
と。
娘が、その通りにしてくれたかどうかは判りません。
その日、長女は、夫が眠ったままなので、食事をを食べさせるのは諦めて、いつもより早めに病室を出たとのことでした。
その翌朝の、早朝の事でした。
「ご主人の血圧が異常に下がってきたので、至急病院にきて下さい」との看護師さんからの電話。
私は、思わず、強い口調で言いました。
「投与するモルヒネの量を減らしてください」と。
すぐに病院へ早朝、タクシーで駆けつけた私です。
その朝の、十時十四分に、夫は亡くなりました。
奥さんの要望通りに、モルヒネの量を減らします、と言われ、投与を始めた途端、みるみる夫の血圧が下がっていき、数分後には。
半年くらい経過し、私の暮らしがすっかり落ち着いたころ、担当医にお会いして、私が治療中に抱いた疑問点をすべてお話しようと思っています。
今伺っても、私は冷静に話す自信がありませんから。
むろん今更、先生を責めるつもりはありません。
まだお若い先生なので、私の意見が、今後の治療における参考となり、役立てば、との思いでいるからです。
家族の承諾もなく、勝手に治療方針を変えていいものかどうか。
栄養補給の点滴を何故してもらえなかったのか?
この点が、一番伺いたいことでしょうか。
書き忘れましたが、放射線治療を開始した時も同様でした。
その治療を検討しているとのお話が前日あった時、そのタイミングは慎重に図らないといけないことくらいは、私でさえ判ることでした。
ところが翌日、夫の病室に入ると、夫のベッドがなくなっていました。
放射線治療の承諾書に、後で事後承諾の形でサインをさせられました。
まだ痛む箇所がはっきりしていない状況の時のことです。
その性急さに私は呆れ、少々憮然となりました。
お会いしたときには、このことも指摘したい、と思います。
肝臓がんの治療の時と同様に、もっと良い医師を探す努力をすべきであった。
紹介、紹介の連続で、そのレールから降りることができませんでした。
その点の不運を思わないではいられません。
(この部分の数行は、削除しました。記述の内容に偽りはありませんでしたが、書き過ぎの感がしてしまいました)
皆さまは、良き医師に治療をしてもらう努力を怠らないようにしてください、と声を大にして申し上げたい気持ちで一杯です。。
不信感が甚だしくなった時は、転院の勇気も持ってください。
掛け替えのない大切な大切な命の灯が、納得のいかない治療で消されてしまうのは堪えられません。
転院してでも、夫の命を守ろうとする努力が足りなかった自分の不甲斐なさが悔やまれ、辛い気持ちがまだ拭い切れていない私です。
追記
すみません。少々書き過ぎの感がしてしまい、気持ちが落ち込んでしまいました。
記事を削除するべきかどうか、今、大変迷っています。
ご覧下さいまして有難うございました。
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