【最近書き始めた原稿の冒頭部分】
人は死ぬとどうなるのか? という命題に誰も答えたことはない。
「これこれこうなのではなかろうか」という答えを、多くの宗教が導き出しているが、それとても仮定でしかない。
なぜなら死んで何処へか去った生命の痕跡は、どうあがいても追尾不能だし、生と死の境を越えて戻った生命もいまだかつてない。
臨死体験といわれる生死の境界を見たという経験を持った人々ですら、死後の世界を見たわけではなく、その手前から舞い戻ってきたのであって、死後の世界へと足を踏み入れたわけではないのだ。どうしたって、答えの出ることはない。
死後の世界は、そういう意味では人間という生命の抱えた、いくつかある不可知領域のひとつといってもいいのだろう。だから同じような不可知の領域、例えば宇宙の果てといった極大であるとか、分子レベル以下の極小の領域にしても、その物理的限界すら想像の範疇にしかないのであって、畢竟、宗教的意識の入り込む余地が残され、死後の世界のひとつの可能性として示唆する人々もいる。
人間の生命は宇宙大、というような発想自体が不可知領域の抽象的な言語化にすぎない。それなのに、多くの人々はその不可知領域に惹かれて止まない。
わかっちゃいるけどやめられない、である。
人は死ぬとどうなるのか? という命題に誰も答えたことはない。
「これこれこうなのではなかろうか」という答えを、多くの宗教が導き出しているが、それとても仮定でしかない。
なぜなら死んで何処へか去った生命の痕跡は、どうあがいても追尾不能だし、生と死の境を越えて戻った生命もいまだかつてない。
臨死体験といわれる生死の境界を見たという経験を持った人々ですら、死後の世界を見たわけではなく、その手前から舞い戻ってきたのであって、死後の世界へと足を踏み入れたわけではないのだ。どうしたって、答えの出ることはない。
死後の世界は、そういう意味では人間という生命の抱えた、いくつかある不可知領域のひとつといってもいいのだろう。だから同じような不可知の領域、例えば宇宙の果てといった極大であるとか、分子レベル以下の極小の領域にしても、その物理的限界すら想像の範疇にしかないのであって、畢竟、宗教的意識の入り込む余地が残され、死後の世界のひとつの可能性として示唆する人々もいる。
人間の生命は宇宙大、というような発想自体が不可知領域の抽象的な言語化にすぎない。それなのに、多くの人々はその不可知領域に惹かれて止まない。
わかっちゃいるけどやめられない、である。