普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

阿頼耶識 阿摩羅識

2010-10-27 10:33:50 | ちょっと宗教<的>な
 人の世の移ろいほど儚いものはない。人の世とは、一体なんなのだろう? と、最近になって細々と考える。そして行き着いた結論が、以下に記すことだ。

 人の世とは、生きとし生けるものの意識の数だけあるパラレルワールドであると言うこと。
 例えば彼女と同じ方向を向いて、道を歩いているとしよう。彼女と僕の距離は50cmほど離れている。すると、同じモノを見たときに、すでに見る角度が違っている。見たものについて二人で語ったとしても、二人は別の角度から見たモノについて語るわけで、決して同じモノについて語っているとは言い難い。簡単な例えだが、これが全てだ。
 もしそのモノが三角柱で三面の色がそれぞれ赤青黄であったとすれば、そのモノまでの距離がわずかであればあるほど、そのモノの色は別の色として二人に認識されることになる。僕が赤い物体について語るとき、彼女は黄色い物体について語っていると言うことになるのだ。これが世界の実相だろう。
 誰もが自分の感知できる世界の情報だけしか知らない。知らない情報はないも同然なのだ。
 突き詰めれば、実のところこの世は一人の人間のモノでしかない。そう、自分の世界しか自分には認識できない。
 だが人間は、必死に他とのコミュニケーション手段を求め、獲得してきた。
 それは、ひょっとしたら自分と他人は違うものを見ているのではないか? という懐疑がどこかにあったからに他ならない。
 別の言い方をすれば、一人で居続けるのは、怖い。恐怖だ。だから、一人なのではないという証拠が欲しいのだ。それは「共通認識」とでも言えば良いのか、ある種の言語化された、あるいは「20世紀少年」の「ともだち」の記号のようにアイコン化された、共通意識のフィルターを通過することで、一人という恐怖を払拭できるのだ。
 そのコミュニケーションの手段の究極が、宗教だと思う。
 例えば仏教は、人間の「意識の階層」を明確に説いている。それは「五感」という具体的な認識装置(目、耳、鼻、口、皮膚)からはじまり、「六感」という無意識領域の感知システムにいたり、「未那識(七識)」という自分自身の無意識領域の更にその奥を覗く覗き窓があり、「阿羅耶識(八識)」に至りはじめて個の意識・無意識領域を超えた西洋的に言えば「アカシックレコード」のような共通意識、共有できる智慧の蔵があると説く。
 そして、その先に「九識心王真如の都(阿摩羅識)」と呼ばれる森羅万象すべての根本淨識、つまるところ「正しく揺ぎない、変わることのない心の働く場所」、言い換えれば「仏」の居場所があると説いている。
 人の世は、確かに「生きとし生けるものの意識の数だけあるパラレルワールド」だと思う。
だが、そのパラレルワールドを貫く「阿羅耶識(八識)」「九識心王真如の都(阿摩羅識)」という軸がある。そこに収斂していくことで、人間はバランスを保ち生きている。
 ちなみに「阿羅耶識(八識)」はユング的に言えば「家族・国家無意識」であり「九識心王真如の都(阿摩羅識)」は「世界・宇宙無意識」とでもいえるかもしれない。
 宗教は、「一人である」という「差異」を超え、意識・無意識を統合する働きがなければ、宗教とはいえないと、最近とみに思う。
 そして、儚い人の世の移ろいに、宗教ほど必要不可欠なものはないとも思う。