普通な生活 普通な人々

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因果応報

2012-04-20 14:47:26 | ちょっと宗教<的>な
 仏教にはなかなか冷徹な法理がある。
 その最たるものの一つが、因果応報という法理。

 因果とは、原因と結果であり、応報とは、原因に応じた報いがあるということ。
 最近の人は、この「報い」という言葉を、悪い意味で理解する人が多いようだが、報いとは単に結果のことだ。

 本質的に仏教は、悪い結果を想定することなどほとんどない。因果応報の言葉も、原因があれば結果が生ずるという当たり前のことを、なんの予断もなく説明しているに過ぎない。

 どこが冷徹かと言えば、結果としての現在は、過去に必ず現在という結果を生む原因があったということなのだが、ほとんどの場合その結果を予測しながら何かを行なってきたことなどなく、畢竟なにが原因だったのかまったく分からない、詰まるところ、因果応報という言葉の持つ意味は実感できないままに終わるからだ。実感できないと言うところが、冷徹なのだ。それでも「因果応報」は、厳然とあるのだから。

 もっといえば、この考え方で行けば、いま自分が意識しようが無意識であろうが考え成していることが、未来の「果」を作っているわけだが、それがどんな結果になるのかなど、誰も考えながら生きてはいないし、よしんば考えたとしても「果」を想像することは困難だ。

 仏教で説く「因果律」は、実はさらに深く遠い所にある。
 仏教では永遠の生命を説く。従って、現在という「果」を生んでいる「因」はいつ生命に刻まれたものなのか分からないのだ。
 ひょっとすると、例えばボクが「加藤 普」として生きている生命とは異なる、過去世というまったくあずかり知らない、前世、過去世で作った「因」かもしれないのだ。

 そうなると、まったくあずかり知らない「因」ということにもなり、それが、従うべき法則「因果律」に律せられた「果」であるかどうかさえ、我々には分からなくなってしまう。

 と同時に、だからこそ日々を自ら律しながら生きようという、人間としての本源的な律に従うこともできる。その本源的な律=宗教=仏教に従うことの中に、因果応報も含みこまれるということなのだろう。

 だから、冷徹なのだ。
 こうした類いのことは、実は考え始めれば自分の人生にも深く関わりあることのように思える。その結果、なにか悪業だの悪因縁などという「威し」に自分の生命が屈服してしまうこともある。これが最も怖い。よくいう宗教のマインドコントロールは、多くの場合ここに潜んでいる。

 宗教の正邪を見破る一つの方法が、この「脅し」や「デメリット」が教えの中にあるかないかだ。もちろんないほうが正しいに決まっている。