河村顕治研究室

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山田方谷と岡山大学医学部1

2024-01-16 | 歴史
私が勤務する順正学園吉備国際大学は平成2(1990)年に高梁市と公私協力方式で社会学部のみの単科大学として開学し、令和2(2020)年に30周年を迎えました。
初代学長は岡山大学医学部第三内科教授で岡山大学学長を務めた大藤眞先生でした。
平成7(1995)年に保健科学部及び社会福祉学部を増設することとなり、この時私も教員として招聘されました。
それから四半世紀が経過し、令和3(2021)年4月1日より学長に就任し現在に至っています。

吉備国際大学のメインキャンパスがある岡山県高梁市は、かつては備中松山藩であり大学の裏手にある臥牛山山頂には国指定重要文化財の備中松山城が、またすぐ傍には国指定名勝の庭園を有する頼久寺がある風光明媚な地方都市です。
歴史的には江戸時代末、松山藩の藩政改革に取り組み多大な成果をあげた陽明学者の山田方谷(やまだほうこく)が有名です。
令和5(2023)年2月から12月にかけて直木賞作家の澤田瞳子さんが山陽新聞に山田方谷を題材に歴史小説「孤城春たり」を連載したことから、私は山田方谷と岡山大学医学部の関係に興味を持ち調べてみることにしました。

【山田方谷と三島中洲・川田剛】
岡山大学医学部の歴史は明治3(1870)年に岡山藩医学館を設置したことに始まるとされています。
山田方谷は文化2(1805)年に生まれ明治10(1877)年に没したので、岡山藩医学館の関係者が山田方谷の教えを直接受けた可能性はありますが、私が調査した範囲内ではそうした記述は見当たりませんでした。
しかし、方谷は明治元(1868)年に備中松山城を征討軍に無血開城した後、明治6(1873)年に閑谷学校を再興し、閑谷精舎として子弟の教育に努めたので、その中に関係者がいても不思議ではありません。
山田方谷が直接教えたわけでなくとも、方谷にはその教えを後世に伝えた二人の重要な弟子がいます。
一人は後世において方谷の一番弟子と称せられるようになった三島中洲(みしまちゅうしゅう)であり、もう一人は幕末から明治維新の備中松山藩を支えた方谷のもっとも忠実な部下である川田甕江(かわだおうこう)です。

三島中洲は山田方谷が没した明治10(1877)年に東京に二松學舍(にしょうがくしゃ)という漢学塾を創建します。
現在は二松學舍大学となっていますが、夏目漱石は若い頃二松學舍に通って三島中洲の教えを受けています。
また、渋沢栄一は11歳年長の三島中洲に傾倒し、中洲没後は二松學舍の舎長に就任し二松學舍を守り続けました。
渋沢栄一が現代日本に与えた影響は大変なもので、「日本資本主義の父」と呼ばれ、新1万円札の顔に決定されました。
山田方谷の教えは三島中洲を通じて渋沢栄一に伝わり、現代日本にも貢献しているのです。

川田甕江は一般的には方谷から与えられた剛毅の一字、剛を名のって川田剛(ごう)の名前で知られています。
藩主板倉勝静の護衛役をつとめた熊田恰(あたか)が玉島で割腹した時、覚悟の時を告げた目付役が川田であったし、勝静の新政府への自首を勧める並々ならぬ役割を背負ったのも川田でした。
その後、川田甕江は明治17(1884)年に、東京帝国大学教授に就き、明治第一等の名文家と称せられて明治天皇皇后に御前講義をし、皇太子(後の大正天皇)の教育係(侍講)を務めました。
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