【新島襄とJ. C.ベリー】
岡山大学医学部創成期の歴史ではオランダ医学から米英医学へ、ついでドイツ医学に移っていったという流れがあります。
明治3(1870)年に岡山藩医学館にオランダ軍医のロイトルを招聘しましたがロイトルは約1年で辞任しています。
その後医学館は明治4(1871)年の廃藩置県による混乱を経て明治6(1873)年に岡山県病院となり、同年8月にアメリカ人宣教医師ワーレス・テイラーを招聘しますが12月には辞任してしまいます。
岡山大学医学部創成期に一番貢献した外国人医師は、新島襄と同時期にアメリカン・ボードから日本に派遣されたアメリカ人宣教医師のJ. C.ベリー(John Cutting Berry)でした。
ベリーは兵庫県で活動を開始していましたが、その目覚ましい業績に目をつけた岡山県令の高崎五六によって明治12(1879)年4月に医学顧問として招聘されました。
ベリーは明治17(1884)年3月に辞任するまでの5年間、岡山県病院・岡山県医学校を改革すべく意欲的に努力し、患者の診療とキリスト教の伝道に当たりました。
しかし、J. C. ベリーと新島襄の絆は強く、新島は岡山で活躍していたベリーを最後は京都に呼び戻しました。
当時、新島はキリスト教主義の医学部設立を中心に考えており、明治8(1875)年に開校した同志社英学校を、帝国大学に次ぐわが国2番目の総合大学に育て上げようとしていました。
そのために明治20(1887)年の京都看病婦学校・同志社病院の創始については、そのほとんどをベリーに任せています。
その結果、ベリーは明治17(1884)年から帰国する明治26(1893)年まで9年間を京都で過ごしました。
新島の死後、資金的な支援が望めなくなり病院は閉鎖されましたが、長年の過労のため46歳11ヶ月の若さで没した新島襄がもしあと10年健在であったなら、今頃J. C.ベリーを初代院長とする同志社大学医学部が存在したかもしれません。
岡山大学医学部創成期の歴史ではオランダ医学から米英医学へ、ついでドイツ医学に移っていったという流れがあります。
明治3(1870)年に岡山藩医学館にオランダ軍医のロイトルを招聘しましたがロイトルは約1年で辞任しています。
その後医学館は明治4(1871)年の廃藩置県による混乱を経て明治6(1873)年に岡山県病院となり、同年8月にアメリカ人宣教医師ワーレス・テイラーを招聘しますが12月には辞任してしまいます。
岡山大学医学部創成期に一番貢献した外国人医師は、新島襄と同時期にアメリカン・ボードから日本に派遣されたアメリカ人宣教医師のJ. C.ベリー(John Cutting Berry)でした。
ベリーは兵庫県で活動を開始していましたが、その目覚ましい業績に目をつけた岡山県令の高崎五六によって明治12(1879)年4月に医学顧問として招聘されました。
ベリーは明治17(1884)年3月に辞任するまでの5年間、岡山県病院・岡山県医学校を改革すべく意欲的に努力し、患者の診療とキリスト教の伝道に当たりました。
しかし、J. C. ベリーと新島襄の絆は強く、新島は岡山で活躍していたベリーを最後は京都に呼び戻しました。
当時、新島はキリスト教主義の医学部設立を中心に考えており、明治8(1875)年に開校した同志社英学校を、帝国大学に次ぐわが国2番目の総合大学に育て上げようとしていました。
そのために明治20(1887)年の京都看病婦学校・同志社病院の創始については、そのほとんどをベリーに任せています。
その結果、ベリーは明治17(1884)年から帰国する明治26(1893)年まで9年間を京都で過ごしました。
新島の死後、資金的な支援が望めなくなり病院は閉鎖されましたが、長年の過労のため46歳11ヶ月の若さで没した新島襄がもしあと10年健在であったなら、今頃J. C.ベリーを初代院長とする同志社大学医学部が存在したかもしれません。
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