河村顕治研究室

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山田方谷と岡山大学医学部2

2024-01-17 | 歴史
【川田剛と新島襄】
幕末の文久2(1862)年、備中松山藩は1万8000ドルでアメリカから大型帆船「快風丸」を購入しました。
これは川田剛が山田方谷の命をうけて行ったことでした。
当時、川田剛は江戸において親戚藩である安中藩(現在の群馬県)の藩儒不在の穴を埋めるため、江戸安中藩の臨時講師として漢学を教えていました。
その中に新島七五三太(しめた)がいました。
新島七五三太は後の新島襄であり、同志社大学の基となる同志社英学校を設立することになります。
青年時代の新島は封建制度の暗黒面ばかりが覆っているように感じられる江戸藩邸の中で、学問に精を出すことでその空気から逃れ出ようともがいていました。
そのような精神的葛藤の中で川田剛と巡り会い、以後終生にわたる子弟の絆で結ばれます。
そして川田剛は七五三太を快風丸の試運転に参加させたのです。
当時、玉島は備中松山藩の飛び地であり、初航海は江戸から玉島を往復するというものでした。
新島襄は後に19歳の時の快風丸での航海について「この航海によって私の精神的な視野がうんと広がったことは明らかである。」と記しています。

 
この航海を経験した後、アメリカの本や禁制の旧新約聖書(漢訳)を読むことで、新島は鎖国下の封建国家日本を密出国して自由なアメリカに渡ることを考え始めました。
これを助けたのがやはり川田剛を始めとする備中松山藩の仲間達でした。
元治元(1864)年新島は再び快風丸に乗って函館まで運んでもらい、そこからアメリカへ飛翔することができたのでした。
ちなみに、この時新島を上海からボストンへ乗船させてくれた船の船長が新島にジョー(Joe)という名前をつけてくれたのが、新島七五三太が新島襄に生まれ変わるきっかけとなりました。
アメリカでの新島襄は船主のハーディーに「脱国の理由書」を提出し、それに感銘を受けたハーディー夫妻は新島の養父母となり、全米屈指の名門大学であるアーモスト大学へ進学させてくれます。
日本人として最初の学士(理学士)となった新島襄はさらにアンドーヴァー神学校に入学し、研鑽の末、明治7(1874)年に牧師資格を取得し、その後アメリカン・ボード(プロテスタント教会の海外伝道組織)宣教師の資格も得て母国日本でのキリスト教伝道の任も帯びて帰国の途についたのでした。

「歴史にifはない」と言われますが、もし山田方谷が備中松山藩の財政改革に成功しなければ快風丸の購入はなく、快風丸と川田剛はじめ松山藩の仲間がいなければ新島襄がアメリカに渡ることもなく同志社大学もなかったでしょう。
同志社大学は快風丸をとても重要視しており、2010年に同志社創立135年を記念して快風丸1/30模型を製作して展示したり、新しく建設した研究施設に快風館と名付けたりしています。
同志社人である澤田瞳子さんが山田方谷を題材にした歴史小説執筆を引き受けた理由も、山田方谷に縁を感じているからに他なりません。
新島襄は19歳の時の快風丸での初航海で玉島に来ましたが、その時宿泊した倉敷市旧柚木家住宅西爽亭には、同志社玉島新島研究会が同志社大学からもらい受けて寄贈した快風丸模型が飾られています(写真1)。



写真1:倉敷市旧柚木家住宅西爽亭の快風丸模型
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