河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

石井十次はなぜ岡山県医学校をやめたのか(続き)

2024-01-03 | 大学
岡山県医学校のことを調べた結果、以下の様に書き改めた。

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【福西志計子と石井十次】
福西志計子が順正女学校の前身となる私立裁縫所を高梁に開設した頃、明治15(1882)年に宮崎県から石井十次(いしいじゅうじ)が岡山県医学校に入学してきました。
十次は金森通倫を通して新島襄の教えを受け、2年後金森から洗礼を受けました。
福西志計子と石井十次には密接な交友があり、十次の妻品子は、明治18(1885)年に新しく設立された順正女学校に入学して第一期生として学んでいます。
石井十次は孤児を救う活動に没頭したため卒業試験に失敗して医師になるのを断念し、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。
石井十次は医学部四年で退学していますが、のちに偉業をたたえ鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に第三高等中学校医学部明治22(1889)年卒業者として掲載されており、このようなことは岡山大学医学部の長い歴史で他に例がありません。

石井十次が入学した岡山県医学校について調べると、明治13 (1880) 年に設立後、明治15(1882)年に甲種医学校に認可され4年間の教育を受けた卒業生は無試験で医師開業免状の交付が認められました。
県医学校の学生数は1学年75人前後であり、これに対して卒業生は毎年20人前後でした。
鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』は明治17(1884)年から始まっており、名簿に氏名が記載されている卒業生は明治17(1884)年11人、明治18(1885)年15人、明治19(1886)年9人、明治20(1887)年10人、明治21(1888)年4人です。
教育が厳格であったため卒業するのはきわめて難しく、明治21 (1888) 年に第三高等中学校医学部へ移行するまでこの状態が続いています。
そのような厳しい状況の中で石井十次は孤児救済のために医学を捨てざるをえなかったのだと思います。
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追記

社会福祉法人石井記念友愛社のホームページでは以下の様な記述がある。

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明治14年、石井十次(16歳)、内埜品子(15歳)と結婚。
上江小学校教師。翌年、宮崎警察官の事務官。
明治15年(17歳)、宮崎病院院長、荻原百々平の勧めで岡山県甲種医学校(現 岡山大学医学部)に入学。

医学への思いも断ち切れずにいた十次は、明治22年、「人は二主に仕ゆること能わず」との聖句に従い、医書を焼き医学校を退学。
この時、児童福祉・教育に専心する覚悟を決める。
十次23歳の時であった。
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多くの資料で岡山県甲種医学校という表記をしている。
岡山大学医学部の資料では岡山県医学校と記録されている。

甲種医学校というのは明治15(1882)年の太政官達により一定の条件を具えた医学校の卒業生も無試験で免状を得ることができるようになり、同年の医学校通則によって医学校が 甲・乙 2 種に分けられたことによる。
甲種医学校は修業年限が4年で、東京大学医学部の卒業生3名以上の教師が必要とされたが、卒業生は無試験で免状を与えられることになった。

したがって、岡山県甲種医学校という表記は間違いであり、岡山県医学校が甲種医学校に認可されたというのが正しい。
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