【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業6章 苦悩 6 便りのないのは良い便り?
その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。
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1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
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◆6章 苦悩
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◆6-6 便りのないのは良い便り?
想定もしていなかったかほりの態度に、戸惑うどころか、天にも昇る心地の竹根であった。神田明神で、商売繁盛につきあってくれたかほりとのひとときであった。
あっという間に東京でのそれからの三日間が過ぎた。四日が仕事始めで、忙しいスケジュールが始まった。かほりと二人だけで会う時間はなかった。
寒さの厳しいニューヨークに戻ってからは、スケジュールに追われた。滞在中に打ち合わせをしたオフィス家具のノックダウン・ビジネスは順調に進んだ。統計器のビジネスは、竹根には無関係に、本社の統計器担当者と直接やりとりをしているので、推移を見守るだけである。時々、儀礼的に担当者に竹根から電話をしたり、近くに行く時には必ず顔を合わすようにした。
ビジネスが進展するにつれ、駐在員事務所という現状が問題になってきた。ケント光学の北野原社長がアメリカに来たとき、ソーホー科学機器で言われた「在庫は充分あるのか?」という入札に即対応できる体制が必要である。すなわち今までのように駐在員事務所として連絡係程度のやり方では済まなくなってきたのである。ニューヨーク事務所が、信用状を開いて、本社から輸入をして、在庫を持つというアメリカ企業と同じやり方をこちらがしないと、大きな発展をするためには、今までのやり方ではやりにくくなってきた。
幸い、竹根が通っているマンハッタン大学大学院の受講科目の中にニューヨーク州ビジネス法が含まれている。それを勉強するうちに、竹根が推進しようとしているビジネスは、ニューヨーク法人でないとできないことがわかってきた。
竹根の次の提案は、福田商事のニューヨーク駐在員事務所をニューヨーク法人に格上げすることである。法律書や教科書、参考書を読みあさった。竹根の速読力はこの期間に極端に改善された。英語の斜め読みはできないと一般的には言われているが、日本語の斜め読みほどではないが、竹根には英語でも斜め読みができるようになってきた。入ってくる情報量が増えると、それを報告するレポートが増え、ペンだこはカチカチに固まってきた。
昼間は時間に追われているし、夜は大学院に通う。その予習復習などをサボると、とたんに授業について行けなくなるので、必死である。帰ってくるのが十一時頃になる。それからが竹根の時間であるが、昨年の暮れまでは、寂しい帰宅であった。今はかほりに手紙を書く楽しみが増えた。毎晩、かほりに手紙を書いた。
ところが、かほりからは全然返事がない。正月の初デート、その事実を考えれば、着実に二人の関係は進展しているはずだ。はじめは、忙しくて手紙を書く時間もないのだろうと自分にいいきかせていたが、どうもおかしい。
おかしいと思い始めると、胃が痛むようになってきた。「恋をすると食事も喉を通らない」ということをよく聞くが、食欲はあまりないけど、食べることはできる。
そんな日が何日か続くと、昼間の仕事の方もつらく思えるようになってきた。現地法人化に関する提案も一段落し、返事待ちの状態である。いつしか本社に書くレポートのページ数も少なくなってしまったような気もする。手紙は毎晩書き続けた。返事が来ないことへの恨み言は、絶対に書いてはいけないと自分に言い聞かせた。
<続く>