心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

スマホでの録音

2016年03月08日 | ほんのすこし
ゴスペルレッスンのときに、レコーダーを一度持っていったきり、後は持って行っていない。一度使ったら、それまでずっと朗読やらCDやらの録音ができていたのが、イヤホンで聞きとりできない状態になってしまった。何度やっても聞こえない。
がっかりしていた。
他のメンバーはよくスマホで録音していたが、わたしのスマホにはその録音するべきものが入っていなかったようで(あれこれ探してもらったが見つからなかった)、メンバーが録音したものを聞いていた。

今回、支給されていたスマホが新しくなったので、どれどれと探してみたら、なんと音声レコーダーというのがついている!これは良かったと。早速すぐ使えるように画面上にアイコンを。
一度だけ録音してみたけど、ちゃんと入っている。
よしよし、今度こそレッスンを録音するぞ♪

まてよ。
レッスンだけじゃなく自分で復習したり、アドリブで歌ったりするのを録音しても面白いんじゃないの?
よく運転しながら適当に歌っていたりするけど、ちゃんと録音してみるのもいいかなと。
まだ録音してみていないけど、今度誕生日をお祝いする友人のために『Happy Birthday』のアレンジを考えてみている。録音しておけばアレンジも忘れないだろう。

それにしても世の中、ますます便利になってしまうなあ。
こんな薄いスマホ一つで色々なことができてしまうようになった。
このまま進んでいってもいいのだろうか、ふと不安が漂ったりして。
単に自分が世の中の進歩に追いつかないということだけなんだけどね。

さて、どんな歌になるかな。
といっても、ただ Happy Birthday to ○○さんを使い回すだけで、歌詞には何も変化なし。
アレンジを入れるのは繰り返しとか、ゴスペル調? にするとか。
でもそういうのを考えるのって楽しい♪
車の中はわたしのリサイタル(笑)、録音はちょっと難しいけどね。さぁって、どこで友人に歌うかな。
まさか食事するお店ってわけにはいかないだろうし。
道端で?(笑)
笑われてしまうだろうね。
結局、お蔵入りの計画、計画倒れになりそうな予感大♪

るんるんドライブ

2016年03月07日 | 朝のことば&つぶやき
※※※

あったかくなったら
どこかへ出かけよう♪

町を出て
ずっと続く広い道路を運転し
少し窓を開けて
ちょっと鼻歌なんて歌って

周りでは田んぼの作業も始まるだろう
生きる糧を生み出すための作業が
自然の不確実さと闘いながら始まるのだろう

わたしはただ意味もなく
この陽気さを味わいたくて
運転するのだけど

今 この瞬間にも
目の前の空に向かって叫んでいる人がいるかもしれない

なんて思っても
今のわたしは
るんるん
この陽気に るんるん
ハンドルさえも笑ってる

※※※




淡谷のり子じゃないね

2016年03月05日 | 母のこと
昨日、予定よりかなり遅い時間に会社から出てしまい、少し躊躇したが、温泉に母を連れていくことにした。今日だと土曜日で混んでいるかもしれないから。
5時半頃の温泉は思っていた以上に人がいなくて、湯殿に入っていると母が
「あぁ、いいねぇ。このくらいだと温泉に入ってるって気分になるねぇ」と、気持ち良さそうに言った。
「そうだねぇ。ここにゴロゴロとたくさんの人の顔が見えると銭湯に入った気がして落ち着かないものねぇ」
と答えた。
温泉の中では有線放送がいつも入っていて、ジャンルはちょっと昔の歌謡曲?って感じかな。
ちょうどそのときにかかっていたのは、五輪真弓の『恋人よ』だった。一番の途中でわたしが曲に合わせて鼻歌を歌っていたら、母が思いだしたように言った。

「淡谷のり子は絶対人を褒めなかったけど、この人だけは違っていたねぇ。この人は上手い!って褒めていたよ」
「そうだったんだ。〈あなたやめたほうがいいわよ〉」って、少し淡谷のり子を思い出して言ってみた。
すると母が右手の人差し指を自分の鼻に押し当てて、
「そういえば、この人にはいつも止めなさい!って言ってたなあ」と言った。
その仕草で清水アキラのことだとピンときたわたしは母の仕草に大笑い。

母が可笑しそうな顔で
「それにしても、お前がこんなに物まねが下手だったとは知らなかったよ」と笑った。
「えっ、そんなに淡谷のり子に似てなかった? 下手? 下手?」
「全然似てないよ。それにしても物まねが下手すぎる!」
「えー、幼稚園児よりも下手あ?」
「んだ!」

湯殿の中で母とわたしが大笑い。
笑った後で、お客様が少なくて良かったと胸をなでおろしたわたしだった。

今年も募集のはがきが

2016年03月04日 | ほんのすこし
早々と今年も募集のハガキがやってきました。
これまで三回応募してきましたが、箸にも棒にも引っかからなかったものです。でも入賞作品を本にしたものが参加者全員に配布されるので、それを読みたい気持ちもあり、ダメもとで応募してきたのでした。
でも、今年は鼻から応募のことは考えないようにしていました。最初は案外簡単かも…… なんて、高をくくっていたのです。なんて浅はかな考えだったかと今にして思えます。

でもこうして応募者全員にまたハガキが配布されているのを見ると、やっぱり書いてみたいなという気持ちがむくむく。
今書いているものとは全然ジャンルも違うし、どうかなとは思うのですが、誘惑の手に染まりそうな気もしてきます。毎回、応募者が全国で一万人を越えるというのもわかります。高根の花とは思いつつ、挑戦してみたいという気持ち、それにしてもこの会社、毎回こうして先回応募した方に立派なハガキを送るという、その手間と経費は半端じゃないと思うのです。

作家を育てるということではなくて、心のふれあいが伝わる作品を探すということが方針らしいので、それに沿ったものを書くということになります。
童話を書こうと決めて挑んできましたが、童話ってやっぱり難しいです。短い枚数にストーリーを入れるって勉強になりますが、今のわたしではなかなかできない芸当でした。

さて。今年はどうしようか。

応募するだけのものが無い今、書きかけのものを最後まで仕上げよう!と決めたばかり。
それをきちんと納得のいくものに完成してから、また応募するものを書くのが一番かもしれない。
目標があるというのは張り合いがあっていいものですが、だめになったときにどう復活していくか、へこたれない自分をちゃんと持っていないとね。

最近は一塩で

2016年03月04日 | ほんのすこし
新聞で読んだレシピを真似してみました。
冬の間、大きな白菜を買って結構ちまちま使っていました。鍋はほとんど作らず、スープに使うぐらいでしたのでなかなか少なくならなかったのです。でも、寒い地方だとくさることもなくしばらく持ちます。まぁ、みずみずしさからいえば、そこはどんどんマイナスになっていきますけどね。

そのレシピというのは、白菜を千切りにして一塩。それを一晩冷蔵庫にいれておくというものでした。
次の日、その白菜の水気をしっかり絞り、豚の薄切り肉にちょうどいい分量入れて包みます。包んだものに小麦粉をつけ表面を焼きあげます。その後甘辛のソースを入れて煮る。とまあ、こんなレシピでした。

生の白菜をそのまま使うよりも美味しかったのです。
白菜が甘く感じられて。
水分が適度に抜けて。
あぁこういう使い方もあったんだねぇって、ちょっと感動。
今までこういう使い方をしたことなかったのです。きっと皆さんはもう知っていたのだろうなと思いますが、わたしはちっとも考えたこともありませんでした。料理上手からは遠いなあって思いましたよ。

その後、この一塩一晩を実行し、餃子も作ってみました。それもまたなかなか美味しかったのです。

そして、昨日は読者登録している『きばなの硝子瓶』で、生干し大根の煮つけ、という記事があり、それがとても美味しそうだったので、早速わたしも生干し大根を作ってみることにしました。
でも、切ったはいいけど、風に当てるという行為が無理だということに切った後に気が付きました(笑)。
仕方がないので、ストーブのそばに置いています。

全然生干し大根にならないかもしれないけど。
でも食べてみたいな。
こってりした色がとても美味しく感じられます。きばなさんの料理はとても美味しそうで、器と料理がとても綺麗に使われていて、見るたびに感動しています。どうしたらこんなに料理ができるのでしょうね。

さて、今日は料理しなくてもいい日。
昨日、作りすぎたから今日の分はいらないと母に言われました。確かに食べるものが結構ありました。でも豆をゆでたものがあるし、早めにスープか何かにしないと…… なんにしたらよいのか、思案中。
豆のカレーっていうのもいいかもしれないなあ。

雛祭りなので

2016年03月03日 | ほんのすこし
先日、見てきたつるし雛展示会から。

うさぎの長い耳が印象的なお雛様。

結婚してから桃の節句も端午の節句も祝ったことがありません。だからこういう伝統行事ではどんなことをするのか、何を用意するのか、どんな食事にしたらよいのかといった基本的なことはちっともわからないできました。
結婚前の子どもの頃は、端午の節句といえばどういうわけか近所の子どもたちが集まって「こどもの日」を楽しむために誰かの家に集まって学芸会よろしくあれこれと練習した成果を見せたりしていたのが記憶に残っています。
大きなこいのぼりを飾ることもせず、狭い我が家ではお雛様を飾るスペースもありませんでしたから。ただ小さな折り紙で作ったお雛様とか、何かの付録についていたお雛様を飾ってみたりすることはあったように思います。母がちらしずしを作ってくれたのをかすかに思いだします。

自分の家が裕福ではないということを幼い頃から感じていました。
でもあの頃の学校は、自分と同じような暮らしぶりの子どもたちが大半で、裕福な生活をしている子供というのはクラスの中で少なかったのです。
だから、肩身の狭い思いを味わうということはありませんでしたし、裕福でないということで引け目を感じることもなかったような……
いや、ありました。
クラスの子の家に遊びに行ったとき、その子のお母さんがわたしの家のことについて聞きました。
わたしは正直に母は親戚の家の手伝いをしていると答えました。その子の家では専業主婦のお母さんでした。
次の日、その子がやってきて
「母さんが、○○さんはもう家に連れてくるなって」と言いました。
わたしはなぜそんなことを言われるのだろうと不思議で、悲しくなりました。

母親が働いている、しかもバリバリのキャリアウーマンではなくて(もっとも昔はそんな言葉もありませんでしたけどね)家政婦まがいのことをしている、そんな家は我が家とは不釣り合いだということなのでしょう。
母には言いませんでした。自分たちのために一生懸命働いて夜遅くまで働いて、家の中のこともして、そんな母にどうして友達のお母さんが言ったことを伝えることができるでしょうか。

別にその子だけが友達じゃないし。
わたしには本があるし。
その頃のわたしは人生で一番本を読んだと思う時期でした。図書館の本を読みあさり、頭の中は本のことでいっぱいでした。図書館司書のお姉さんも大好きでした。
そのお姉さんにだけはこっそり話しました。
「○○さん、職業に貴賎はないのよ」
そう言われたときに、あっと思いました。よく父が話す言葉でした。そうか、そういう言葉だったのか。
父とそのお姉さんの顔がだぶって見えました。父も母も子供のために、生活のために働いている。わたしは何も落ち込むこともないし、胸を張って生きて行けばいいんだ、と。

その後、もう何十年も時が流れました。
小学校の時に通っていた大きな通りは、無数の車が行きかう通りに変身し、あの頃わいわいと子供が通りに出て遊んでいた記憶はどこにもこぼれていません。
そして、昔一度だけ遊びに行った家は、通りの中でひっそりと誰が暮らしているのかくたびれた様子で立っています。
あの子もそこには住んでいないのでしょう。
今どうしているのかわかりませんが、人の行く末というのは誰も想像できないもの。昔一緒に遊んじゃだめと言ったお母さんも生きているのかどうか。
今も母の暮らしは裕福ではありませんが、それでもなぜか心の豊かな生活をしている、そう思えて仕方がないのです。貧しいということがイコール心の豊かさの欠如ではないとわたしは今も思っています。

今日はお雛様。ちらしずしでも作ってあげようかな……

すごく気になる人

2016年03月02日 | ほんのすこし
今回のドラマですごく気になる人がいるのです。
それは『お義父さんと呼ばせて』に出ている方で、遠藤憲一さん扮する主人公と同じ会社に勤める女性、八千草千代という名前で出ています。なんというか話す内容が適格と言うか……
でもそれ以上にその存在が気になる感じで。HPの人物相関図に出てきます。

調べてみました。
伊藤修子さんと言う方でした。

なんだか飄々とした感じが。飄々としていてもいいんじゃないのって感じに思える。
セリフはおぼつかないかもしれないけど、なんだかすごくいい雰囲気で、こういう社員がいたら、救われるのかなって思います。

それにしてもこのドラマ、すごく面白いんですけど。
お腹抱えて笑うって最近ではなかったから、最高です♪
昔、娘が好きだった俳優、渡部篤郎さんが出ているのですが、昔よりずっとわたしにはいいなと思えます。最近はコミカルな役柄がとてもはまっていて、今回のドラマも遠藤さんとの掛け合いにお腹を抱えて笑っています。ドラマを見て笑えるって、ストレス解消(ストレスがあるのか?)になるなって思います。

伊藤修子さん、演技が下手なのかなって最初思ってましたが、こういう言い方をする役柄なんだなと。それがまた回を追うごとにしっくりとなじんできて、彼女が出るシーンを楽しみにしているわたしです。
それともう一人、ププっていつも笑わせてくれるのが、砂清水誠さん役の山崎育三郎さん。この方『下町ロケット』でもいいなと思っていたのですが、今回の砂清水さん役はオーバーアクションで、それがまた面白くて「痛い」役なのにちっとも自分をそう思っていない超ポジティブ派。憎めないなって思いながら笑っています。

ワンクールの中で笑えるドラマがあると、ホッとします♪

いいんです

2016年03月02日 | 朝のことば&つぶやき
※※※

いいんです
あなたがここにもいなくても
いいんです
わたしと出会うことがなくても

ただ想う
それだけで

湖面にうっすらと輝きを残して
あなたが消えていくとしても
いいんです
あなたが一晩中そこにいて
わたしのそばにいて
ただそばにいてくれただけで

いいんです
空には手が届かなくても
こうしてあなたの化身と出会うことができる
それだけで
ふるふると ふるふると
ココロが揺れるのです

※※※



切り替える

2016年03月02日 | ほんのすこし
さっきはなんとも落ち込んだ言葉が並んだものだ。

マイナスの言葉を読んだって誰もいい気分にはならないだろう。
自分でもこれでは何も変わらないなと思ってしまう。

切り替える。
どんなことをして切り替えることができるだろうか。

あのあと、しばらく別の作業に没頭していた。頭の中にはそれまでこびりついていたマイナスなものが一瞬消え去った気がした。目の前の画面を一心不乱に見ているだけで少しは変化が見えたかなと思ったのだ。
気持ちを鼓舞するには色々な方法がある。
わたしの場合はたぶん全然別の作業をしているうちに新たなものを見つけることで、少し前向きになる気がする。今日のへたれな自分が、没頭することで少し消えた気がした。

新しいものへの挑戦。
頭をそっちに切り替えること。
それがまた残念な結果になろうとも、そこに行くまで取り組んだ自分の姿は記憶に留まる。

自分に頭の切り替えができるものをいくつも持っていること。
癒しであったり、楽しみであったり……
誰かと会うことであったり、他愛ない会話であったり……
それだけで満ち足りるものをたくさん普段から見つけておくこと。

それが今のわたしには必要なのかもしれない。

さあ、進もう。

足踏みか後ろ向きか前に行くか

2016年03月02日 | 朝のことば&つぶやき
選択肢には三つあって。
一つは足踏み状態。現状から抜け出ることができないままで時間をやりすぎていく。
二つ目は後ろ向き状態で、過去の自分に囚われそこに入り込むことでどうやら安心感を抱く。
三つ目は前に行く状態で、一歩前に足を出そうとする意欲がある。

今のわたしは最低だ。
足踏みどころか、後ろ向き。
自分の今を否定することだけに考えが向いてしまっている。ここを抜け出したい、この何もできない状態から這い出て自分ができることはもっとあるはずだ、そうよ、これが本当に自分の力なのよ、なんて叫びたくなるような、そんな悲痛さをも閉じ込めて例えるなら足を抱え込んで頭を下げてだるまのように。
何もできなかった。
わたしがしたことは何の意味もなさなかった。
それを知ることは自分のこれまでを否定される気がした。
確かにある意味、否定されたと言えるだろうな。

そんなぐるぐると答えの出ない問いを自分自身に言い続けて二月は終った。
じゃ三月は?
まだ地に落ちた自分を救い出すものは見つからない。

何もしたくなかった。
何もしたくなかったから、テレビの向こうにぼんやりとしたわたしを見ていた。そして本の紙の上にある文字が躍っているのに嫉妬した。
そんな時間がわけもなく怖くなって、自分というものがここに在っていいのかという疑問だけに固執していた。
表面上は笑ったり、話したり。
でもどこかしらじらしく思える自分がいた。
わたし、やっぱり変かもしれない。
はじかれていることにも、もう慣れた。
でもどこかで寂しいのだろうね。

だからさ、全然違うことを考えたらいいんだよ。
自分が過去にしてきたことなんてすっぱり忘れたほうがいいんだよ。
いつまでもしがみついているから、今の自分が見えないんだ。
自問自答。
今さらそこには自分の居場所は無い。
だったらいるべき場所を見つけるしかないんだよ、と。