心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

前はすごく気になった

2016年06月17日 | ほんのすこし
ここを開設してからすでに12年目に突入した。
その間、知り合えた方々、ずっとそばにいてくれた方々、色々な方との触れあいが自分をここまでとどめてくれたと思う。
言葉というつながりのなかで、自分はどれだけのものを出せるだろうか、いや、自分が出せるなどと言えない、ただつながりを求めて続けてきた。
gooを止めていった人もたくさんいる。別の方からやってきた人もいる。
このインターネットという世界で、わたしはどうにかこうにか自分を出せる場所を見いだした気がしてきたのだ。

すごく気になっていた。自分がどう見られているのかと。
でもそんなこと全然取るに足らないものだということに気がついた。自分が思うほどに他人はあなたのことを思っていないのよ、と友人に言われた。言われたときにはすごくショックだった。だって、なんだか自分というものがこの世に不必要な存在? って考えてしまったから。
でも友人が言いたいのはそういうことじゃなかった。
他人の目を気にして生きていたらだめよ、ということなのだ。彼女の姿を見ればわかる。自分が興味を持ったことには突進していく。
それがわたしにはなかったけど・

そんな他人の目というか、ネットでブログなるものを出していると、自分が出した記事にどんな反応があるのか? といった命題には敏感に反応する。
だが、最近それもどうかなと思えるようになった。
というのも、リアルで知り合っている友人が、わたしのブログをいつも見ていると言ってくれて、だからといってコメントを入れるまでもなく、といった感じ?
そうなのか。見ていてくれる人がいるのか。
なんとなくコメントを気にかけてきた自分がいたけど、そうじゃなくて、見ていてくれる人がいたんだなって気持ちになれるほうが楽なのかもしれないと思えるようになった。

でもね、逆を介せばコメントを残すような記事じゃないってことなんだよね・・・(笑)

あっでも自分もそうだな。
読者登録している方の更新記事に飛んでもコメントを残すことしてないなあって。
ランキング表示があれば必ずクリックはしているんだけど。
コメントって難しいなと思う。書きたいけど、なんとなく気後れするときが多い。



母の好きな色

2016年06月17日 | 母のこと
母の庭にさつきが何種類か植えてある。
色はそれぞれ。その中で母が一番好きな色だというさつき。
淡いピンクというか紫がかったピンクというか。色を表現する言葉が見つからない。
この色の他に赤もあるし、白とピンクが一本の幹で変化するものもある。それらを愛でながら、母はいつもこれを指さす。
「これが一番いいんだよねぇ」と。

目を細めて言う母を見ていると、まるでそこに我が子がいるような感覚だ。この庭の全てのもの、母が植え育ててきたもの全てがいとおしいのか。
裏庭に無造作に生い茂っている秋田蕗を見て
「このままにしておこう。来年は刈り取って食べよう」と。
今年はそのまま生い茂る様子を味わい、来年はその中身の新鮮な感動を味わう、そういった思いを感じる。

前庭には見栄えのいいものを、裏庭にはそんなでもないものを? そういう思いからなのかこのさつきは本当に好きなようだ。
母にとって庭はこれまでの自分の人生を語るものでもあるようだ。
父と共に暮らした時代。
父は庭仕事など何もできなかったから、ほとんど母がやってきた。レンガを並べたり、土を運んだり、自分の思い描いたように庭造りを楽しんできた。それが今では思い描いた通りなどほど遠い。何をするにも時間がかかる。人が30分で出来る所を今は1時間もかかるよ、と悲しそうな顔で言う。それでもやりたいのだ。
雨が降らないと、庭先に出て、座る。緑を眺め、咲き始めた花を見る。黙ってただ見る。見ているだけで1時間が過ぎていることもあるのだと。

母に
「今日は何していたの?」と聞くと
「庭に出て眺めていた」という答えが何度も返ってくる。
それだけで時間が過ぎていいることに苛立ちもあるのだろう。何かをしようと思って庭に出てきたものの、何もできずにただそこにいただけ。そんな時間が過ぎてしまったのだと。
でも、それでもいいんじゃない?
庭を愛でて生きてきた、あなたの世界がそこにある。
雑草を取りたくても時間がかかるから、わたしが手伝うといっても、おまえは雑草も大事なものもわからないからねぇ、と言われへこむけど、それでもそこに母がいるだけでなんだか嬉しくなる。
母の姿がこのままずっとそこにあってほしい。

最近、毎日母の様子がどうなのかと考えることが多くなった。
右目の痙攣、気にしないでいようと思っているようだけど気になるし、横になるとスッと消える疲れ方も気になるし、とれない咳があると疲れてへとへとになることも気になるし。そのどれもわたしが何もできないことで、母の辛さを我が身に置き換えることができない。
痛みというのは、味わう人でなければわからない。同じ痛みでなければ。寄り添うだけでもいいと思っていたけど、それは違うのかなと思う。
救われるのは、母の場合痛みが最大限にそのときに起きるけど、ずっと長時間あるわけではないということだ。
そのとき我慢すればいいから、と言う。
でもそのときがいつなのか、本人にもわからないことが多いのだ。

この薄いピンクのさつきを見ながら、母は何を思っているのだろう。

一番最初

2016年06月16日 | 朝のことば&つぶやき
※※※ マウス画 ※※※


誰もいない
何にもない

そんなどこか遠くで
ただ光だけが輝きを映す

ただ風だけが草原をなでていく
あぁ、うねりを見せて
それらは踊っている
かすかに微笑んでみせて
初めて聞いた音楽のような
目を閉じるとまぶたの奥に浮かんでくるような
’一番最初’という
そこから

わたしはやってきたのだ

やがてわたしはわたしという名でさえないものになり
また風に揺られ
光を浴びて
なにもない
誰もいない
そこへ
戻っていくのかもしれない



『断片的なものの社会学』

2016年06月16日 | ほんのすこし
先日二冊本屋さん(市内でも数少なくなってしまった書店、ショッピングセンターに入っている)で購入してきた本の中の一冊。
『断片的なものの社会学』岸政彦著

社会学者である著者は龍谷大学社会学部で教鞭をとる。

社会学? ふと遠い記憶を探り寄せるような気分で本を開く。
そういえば、学生の頃一般教養で社会学概論とかなんたらかんたらという授業を受講したような気がする。
そう、気がするというぐらいの曖昧さでわたしの頭に入っている言葉なのだ。社会学のなんたるかも知らず、深く掘り下げようなどと思うこともなくただやり過ごしていただけの試験やレポートだったような。
そんなわたしだったから、今手元にあるこの本をめくるとかなりの衝撃を覚えた。

朝起きて夜に眠るまで、わたしの頭はフル回転している。それはなんの意味もなさない言葉の羅列だったり、目の前に在る物へのつぶやきだったり、母の話を聞きながら、あれ?そういえばあれはどこに置いたんだっけ?などと話とは関係ないことが浮かんでいたり、とにかくわたしの頭の中はフル回転なのだ。そのどれもが取るに足らないことに過ぎないのだけど。

そんななんでもないような、どうでもいいようなことを四六時中考えている。
でもたまにはすごくたまには、案外真剣にとんでもないことを考えて、自分というものは・・・とか、生きていることの不思議とか、突然どこからか沸いてきたかのように浮かんでくるものもある。

この本はそうしたわたしの頭の中をかき乱してしまった。

女性は可愛いものが好きだ、という言葉があったとして。そこに限定されるのは女性で、女性以外のものは蚊帳の外にいるという。男性だって可愛いものが好きな人もいるのだ。これが「わたしは可愛いものが好きだ」となれば、わたしに限定されるから他者を退けるものは無い。こうした他者を分断するような言い方や考え方が周りにはたくさんあるという。言われないとそれとは知らずに使っているような表現がわたしにもたくさんあるということに気づかされる。

たくさんの方にインタビューをしてきた文章には、その方々の語りの中でつまびく物語のきわどい部分、まるで暗闇の中を歩いてきてふと気がついたら、目の前に道は無く、踏み込める地面が見えなかったような、そんな人間の不安定でアンバランスを思わせるようなものを感じてしまう。
それはこの先いったいどんな言葉が出てくるのだろうというドキドキするような、戸惑うような、感覚をわたしに蘇らせる。あぁ、こんな感じ、あったなあと。

たとえば、団地に父親がやくざで母親が子供を隣の部屋にやり男を部屋に連れ込む一家がいた。そのうち父親は刑務所に入り、母親は子供を置いて出ていく。残された子供はしばらくして施設に行く。するとその部屋の階下の住民から管理会社に苦情が行く。どうにも悪臭がひどくて敵わないと。その部屋を開けてみると、そこは何も無い、綺麗な部屋だった。
最初にインプットされた【やくざ】【母親が出て行った】【子供だけで暮らしていた】それがあるだけで、部屋はゴミが散乱していて当然だという感覚。それが見事に砕け散るのだ。
こうでなくてはならないという決めつけ、臭いなどなにもないのにそう感じてしまうこと。
これは果たしてその人だけなのか?
案外、自分の中にもあるのではないか?

岸さんは色々な職業を経験している。そういう経験が随所に現れる。

読み進めていくうちに、自分というものがどこか別の世界にもいるような気がしてくる。奇妙でそれでいてこういう言葉の群れを読みたかったんだという気持ちが生まれる。
岸さんは決して押しつけない。
わからない、という言葉が時折出てくる。その言葉が出てくるとなんだかホッとしている自分がいる。

この本は読後感を書くのは難しい。でもこういう本があるということを知ってほしくてここに書き留めておく。
再読が必要な本でもある。

岸雅彦のBlog ここを読むと、少しどんな本なのかがわかるような気がする。

イチロー日米通算4257安打達成!

2016年06月16日 | ほんのすこし
先ほどイチローが日米通算安打4257本達成しました!(日本時間7時30分過ぎ)

ウォーキングから戻り、テレビをつけると報道番組で織田信成さんがイチローのことを話していたので、慌ててBS1に回すと、今まさに試合中!

それからずっと見続けていましたが、第一打席でピート・ローズに並ぶヒットを打ちました!4256安打の達成です。
それから第二打席から第四打席まで凡打に終わり、最終第5打席でヒット!
スタンドのファンが総立ちで記録達成を祝ってくれました。
イチローがかぶっていたヘルメットをとってスタンドのファンに感謝の気持ちを表していました。

イチロー、すごい。
類い希なる自己管理、メンタルな強さ。

あっこの試合で守りのときに彼には珍しい守り損ねる場面がありました。光がまぶしくて一瞬ボールを見失った感じでした。
イチローでもこういうことがあるんだなと妙に感心してしまったわたしです(笑)。
人間だもの、誰にだって失敗はあるんだ、ってね。
そんなところに嬉しさを感じるなんて、わたしもなかなかひねくれ者ですよ。

朝からイチローの嬉しい試合を見ることができて、最高にご機嫌♪
雨まじりのどんより空もなんのその、イチロー、メジャー通算3000本安打達成もこの勢いで行ってくださ~い♪

それにしてもBSが放映されるようになってメジャーの試合もリアルタイムで見ることが出来るようになった。進化ってめまぐるしいね。
サッカーにしても、テニスにしても、見たいなと思ったときに夜中でも早朝でもリアルタイムで見ることができる(スカパーとかwowowでないとだめなときもあるけど)なんて、前は考えられなかったなあ。

母に言わせると、BSがあるから韓国ドラマも時代劇も見ることが出来る、BSがついて良かった良かった、なんだそうで。母にも嬉しいBS、わたしにも嬉しいBSさまさまなのであった。

最後にもう一度、イチローさん、日米通算4257安打達成、おめでとうございます

まぶしい空

2016年06月15日 | ほんのすこし
だんだん夏に近づいている。
日差しが強くなっている。
見上げる空も夏模様に変わっていく。



青い空、白い雲。
雲の形が北と南、西と東で全然違ったり。



ただ青いだけじゃなく、雲がそこにいればなんだか落ち着く。



どんよりした空が続いていたけど、今日はこんなにもいい天気。

ここ数日、母の庭の樹の剪定に精を出していた。今日は最強の助っ人であるご近所さんの旦那様に登場していただき、太い幹をごりごりノコギリで切ってもらった。途中までわたしがやったのだけど、切っているうちに毛虫を発見してしまい、その後はもう体がかゆく感じられてギブアップ!
犬の散歩から帰ってきたその方を母とふたり待ちわびて、お願いした。

すっかりさっぱりと変身した庭の樹を見て、母もほっとした顔をしていた。
これから新芽が伸びて綺麗なモミジたちが見えるだろう。

後は蜂がぶんぶん飛んでいる柘植(つげ)の剪定が残るのみ。
なんとか蜂の機嫌を損ねないようにチョキチョキしなくては。

明日はまた天気になるのかなぁ。

※※※

『ふたつの名前を持つ少年』 実話だとは。

生きていくこと、生き延びること、過酷な運命に翻弄されながらも強く生きるその姿に打たれる。

※※※



また苺が出来ました

2016年06月14日 | ほんのすこし
昨年も美味しくできた苺ですが、今年はリフォームの件があって庭に出ることが出来ず、伸び放題になっていました。
母もすっかり諦めていましたが、プランターを玄関前に持ってきて長く伸びきった茎を支えておきました。母がね。わたしは見守るだけでしたが(笑)。

あまり茎が長くなってしまったので、今年はもう無理だろうねと話していました。
でもね、生命力ってすごいですね。
ちゃんと実がついていたんですよ。近くにいくと甘い香りもしてきます。
可愛いです。
この苺、とげとげもそんなに感じなくて美味しかったんです。
今年はどうかな? と思っていましたが、昨日、母が
「おまえが買ってきた苺だから一番先におまえが食べたらいいだろ」といって、わたしに収穫(といってもほんの数個ですが)して食べろと言います。
可愛いので取るのはもったいないなと思ったのですが、そのままにしていても腐っていくだけだし、ということで4個取ってきました♪






なんか可愛いでしょ。
食べるのがもったいなくてただいま冷蔵庫で待機中です。




受診日

2016年06月13日 | 母のこと
昨日から今日は歩かないと決めていた。
今日は母の受診日。朝の時間をしっかりと頭にインプットして有効に過ごさないといけないからだ。歩くと体の調子はいいけど、戻ってきた後で疲労感が残る。その後外出するのに、時間がかかる。ということで、今朝は歩かないことにし、昨夜戻ってきてから洗濯を済ませておいた。

今日の受診は母にとって気が重いだろう。
これまでリュウマチ関連で臨床試験者として皮下注射をしてきたが、どうも数値が思ったより効果が見られなくなってきた。先生は今度の受診の時に結果を見て今後を相談しましょうと話していた。
母はすでに皮下注射を自分ですることに慣れている。今後の治療というのがもし点滴治療に変わるのであれば困ると心配このうえない。
というのも母の血管は看護師泣かせで、針先が逃げる。毎回採血のときに上手な看護師さんに当たるといいのだが、そうでないときは何人も代わるという事態になる。そのたびに母が済まなそうな顔で謝る。看護師さんも謝る。
それが嫌なのだ。

だからできれば点滴治療にはなってほしくないのだ。
今日の診察は、どきどき不安いっぱい。

それでも金曜日、白髪染めをちゃんと美容院で済ませておくところなど、母らしい(笑)。
先生や看護師さんの前に行くのに変な頭ではいけない、そう繰り返して言っていた。さらに24日の別の科の受診日前にはパーマをかけると話している。
母が唯一、外出する機会、病院へ行く機会、そのときに併せて自分の髪を綺麗な状態にしておきたいのだ。

そんな母はまだしっかりしていると思う。
自分の髪や服装に気を配ることが出来なくなる、それが一つのバロメーターなのかもしれない。ずっとおしゃれな母でありますように♪
そして今日の検査結果でどうなるか、良い方向にいってほしいなと思う。

まずは支度、支度。

今朝はどんより空。
今にも雨がこぼれ落ちそうな。
気持ちは明るく晴れやかに・・・ ね♪


※※※

空き地に雑草がびっしり。これはこれで綺麗だ。ん? 雑草だよね? 違うのかな・・・

※※※

さつき展を見た

2016年06月12日 | ほんのすこし
金曜日、母の処方箋をもらい薬をショッピングセンター内の薬やさんでいただく。
待っている間に三階で開催される予定の写真展とさつき展を覗いた。午前9時過ぎだったので、最後の準備をしているところだった。お客様はわたしともう一人。
さつき展の準備をしている方に写真を写してもかまわないか?と聞くと、快諾。
嬉しくてパチパチ写してしまった。

ほんとに見事なさつきが並んでいる。目の保養、目の保養。
どうやったらこんな枝ぶりにできるのかしらねぇ、と感心しながら歩く。















この枝なんぞは垂れ下がりもいいところ♪
母に見せたらびっくりしていた。そりゃそうだ。間近に見たわたしも驚いたもの。






一本から白から赤に変化している花がついている。花びらの微妙な色の変化が素敵だ。


大迫力!


この色、綺麗だった。


有名な石田ローズガーデン(バラ園)も14日で終わる。開催中に一度見ておきたいなと思ってはいるものの、今回も行くことはかなわないかもしれない。
でも、こうして思いがけず見事なさつきの数々を見ることができたから満足だ。



電車の通る音に

2016年06月11日 | ほんのすこし
ここは線路沿い。
一日にほんの数本だけ電車が通る。それも部屋にいなければわからないぐらいの回数だ。たった今、そのほんの数回のうちの一回の音に遭遇した。
遠くでカンカンカンという音が聞こえ、踏切で遮断機が下りるのだろうなとわかる。道行く車が止められ、少しの時間足止めを食う。

寝転びながらそのときを想像する。自分が足止めを食うときの方が多いのだが、こうして部屋でその音を聞いているとなんだか不思議な気分になる。なぜだろう。
そこにいないのに遮断機の前にいるような感覚だ。
通り過ぎる電車は二両ほどで乗車している人も少ない。たまに高校生がたくさん乗っている時間もあるが、一日のうちの二本ぐらいだ。田舎の小さな路線、待つ車と電車に乗る人、互いの生活に接点は少しもないのだが、見送る運転席からの電車の姿は案外目に焼き付いている。こうして寝込んで電車が通り過ぎる音を聞いていても、通り過ぎた電車の姿が鮮明に頭に浮かんでくるほどだから。

都会のようにすぐにやってくる電車とは違い、一日に何本もない電車。線路もずいぶんくたびれている。



そのくたびれ加減が好きだ。

毎朝、歩きながら踏切を横切るとき、つい踏切の左右を見てしまう。立ち止まり線路の向こう北と南を見る。
線路を歩いていくことはできないが、自分の人生にも線路が敷かれているのかなとふと思ったりする。
しかれているとすれば、これから行く道はまだレールがないと思うことにする。
そのレールは自分で敷いていくしかないのだ、と。