稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.77(昭和62年8月7日)

2019年10月30日 | 長井長正範士の遺文


○ビクトル・ユゴーは“40才は青年の当年期であり50才は老年の青春期である”と言った。

○サミュエル・ウルマンは“年は重ねるだけでは人は老いない。
人の老いるのは理想を失った時から”と言っている。

○私は、昔も今も自分は代わらないんだという考えでいる。
時計や日めくり、カレンダー等が刻々と時を刻み、日や月が移り変わって行くだけであって
己れは少しも変わらないのだ、と思って常時初心の気持ちを持ち続けて修養してゆく、
これが剣道家の心がけねばならぬ当り前の行であると心得ている。

○あの剣聖内藤高治先生が61才の還暦を迎えられた時、
“赤ずきん、三つ子となりて大刀わざ磨かん”と詠まれたそうである。
剣道の大家、内藤先生にして然り、ましてわれわれ未熟者は
一寸段が上がったぐらいで思い上がってはならない。
一刀流に「循環端無し」という言葉をよくよく吟味すべきである。
以上年会に関係した事柄を書きましたが、これに関係して
人間の健康訓ともいうべき教えを2~3紹介しておきたい。

○人生は六十才から
七十才にしてお迎えあれば、留守と言え。
八十才にしてお迎えあれば、まだ早いと言え。
九十才にしてお迎えあれば、そんなに急がんでもよいと言え。
百才にしてお迎えあれば、そろそろ考えてみても良いと言え。
これなどまだまだ序の口であろう。更に

○人の世は山坂多い旅の道 年令(とし)の六十に迎えが来たら
還暦 六十才 とんでもないよと追い返せ
古希 七十才 未(ま)だ早いとつっぱなせ
喜寿 七十七才 せくな老楽(おいらく)これからよ
傘寿 八十才 なんの未(ま)だまだ役に立つ
米寿 八十八才 もう少しお米を食べてから
卒寿 九十才 年令(とし)に卒業はない筈(はず)よ
白寿 九十九才 百才のお祝いが済むまでは
茶寿 百八才 未だまだお茶が飲み足らん
皇寿 そろそろゆずろうか日本一
これなどなかなか諧謔(かいぎゃく)味があり、うまくまとめたものである。

○健康訓として、京都大徳寺大仙院住職 尾関宋園師は、
五十や六十 花なら蕾 七十八十は働きざかり
九十になって迎えが来たら 百まで待てと追い返せ

次に老人健康と長寿十訓として次の項目を挙げておられる。
一、少肉多菜 一、少塩多酢 一、少糖多果 一、少食多齟(※) 一、少煩多眠
一、少怒多笑 一、少言多行 一、少慾多施 一、少衣多浴 一、少車多歩

以上
上のように言われてみればなるほどと思うが、これを努力して実行せねばならない。(続く)

※通常、齟(ソ)と読む。
齟とは歯の揃わないことを言い、転じて、物のくいちがうことをいう。
同音の咀嚼というのるが、これは食物をよくかみしめることを言い、
このかみしめ方が更によくかむため上下左右にかむことを表わしている。
即ちくいちがいよくかむこと。咀嚼より強度がある。
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