稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.73(昭和62年7月1日)

2019年10月09日 | 長井長正範士の遺文


○日本人にユーモア感覚あるか。
と題して前駐日大使コータッチ氏が去る3月5火(木)のサンケイ新聞の正論に
寄せられた記事をひるがえって見たい。以下氏の正論の要約をさせて頂く。

“北斎は最高のユーモア家”ユーモアは外国語に翻訳するのが非常に難しく、
ユーモアの多く、特に皮肉と風刺はその国の国民と、その国の出来事を知らないと分からない。
日本人のユーモアセンスが一番よく分かるのは絵画だ、と私が考えているのは多分そのためである。

中世の一部の絵巻物は、サムライや僧侶といった真面目過ぎる人々のうぬぼれを、
からかっているために非常に面白い。私の考えでは北斎は日本で最高のユーモア家である。
彼は他の画家が真面目なものとしか見なさないものに、こっけいさを見出した。

美というものは真面目であると同時に、こっけいでもあるということが彼には分かっていたのである。
日本人のユーモアは、しばしば泥くさい。
(中略)泥くさいユーモアを野卑だと単純に非難してはならないが、
ここに、日本人のユーモアセンスのもつ問題点の核心があると思う。

日本人のユーモア文学の大半は大衆的である。
狂言は能楽を好む貴族的な観客を楽しませるために作られたものと思う。
能楽自体に、ユーモアが入り込むことは、ゆるされなかったからである。
然しシェイクスピア劇では、ユーモアの要素は大悲劇の中でさえ
観客に悲劇と喜劇のバランスを見失わせない限りでは、不可欠と見なされたのである。

膝栗毛の弥次喜多は理解しやすい喜劇的人物であるが、
シェイクスピアのフォルスタッフやデイケンズの「ディビット・カッパーフィールド」の
ミコーバー氏ほどの性格の深さはない。

私は故、源氏鶏太のユーモア小説が大好きで、その一部を英語翻訳した。
城山三郎や、井上ひさしのような作家も、ユーモアセンスを持っていると思う。
然し、日本の批評家は、ユーモアセンスを高く評価していないのではないか。
私の見解では、それは高く評価すべきものである。

“楽しい川柳のウィット”口語体のウィット(機知、才気の意)は特に翻訳が難しい。
私は大抵の川柳は説明してもらえないと、そのユーモアが理解できないことを白状しなければならない。

(中略)日本の政治家が何人ぐらいユーモアセンスをもち、それを使っているであろうか。
政治家たちは、斉藤英四郎氏や本多宗一郎氏のような財界首脳から学べると思う。
このお二人は、真のユーモアセンスをもっていると私は考えている。
その秘訣は、自分自身をあまり生真面目に受けとらないところにある。
“マジメ”の過剰は身体にも精神にも良くないのだ。
以上がコータッチ氏の考えであり、少くともイギリス人はそう思っているのである。
では日本人はどう考えているのか、ここに有名な司馬遼太郎氏に登場して貰い
司馬氏のお言葉を拝聴したい。以下司馬氏のお説。

○言語の魅力=練度高い正直さがカギ
ニューヨークに滞留していたとき、歌舞伎がやってきた。
見に行った同行の友人が暗い表情で戻ってきた。
歌舞伎はすばらしかったが開幕前、ロビーで日本のえらい人のご挨拶があったのをきかされて、
滅入ってしまったという。日本的な規準でいえば、別に悪いスピーチではない。続く
コメント
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