禅をシナに伝えた達磨大師も「理入-行入」の二面を真理体得の二途として示しています。
これに反し、西洋哲学は一面的な「知」の立場に立ち、行(ギョウ)道を伴なっていません。
それを私は早くから、いわゆる哲学の欠陥と感じていました。
哲学が知のみならず、知情意の全体的発動を含む「気」によって営まれ、
それ自身が一つの人生道として立とうとするならば、哲学も行(ギョウ)道をもつべきだと思います。
そしてその行動としては、身を正し、呼吸を調えるという正身正息が最もふさわしいと思います。
哲学はいっさいの理、即ち物の筋合いを広く見渡し、
これを統合し体系化することを仼とするものですが、
哲学者はそれぞれが身体者である故、おのが身の筋合を調え「万物われに備わる」の理を
“身証”すべきではないでしょうか。
哲学は全体の学であり、全体の本義は主客の渾一(こんいつ)にありますから、
対象に向って発動する「知性」のみでは哲学の本格的な原理とはなりません。
哲学はひろく「心性」にかかわる故、品性を高め「気質」を練磨する実践道たるべきものと思います。
武士は武技を修めるためから、正身正息の実践を行ったし、
またその涵養せる気概、正志の、おのずからなる表現としても、身を正しく保っていました。
山鹿素行は赤穂に流謫(ルタク)の十年間「絶えて惰容なし」と
評せられるような風姿、態度であったといいます。
心がけのよい武士はいつ敵に斬りかかられても即座にそれに応じられるように、
たとえ静かに坐していても、改めて姿勢を調えることなしに、
そのまますぐ適切な動に移り得る身構えを保っていたものです。(静中動あり)。以上
※図の英語の解釈は長井が勝手に入れましたもので、
シーは普通の解釈では、見る。観察する。合点する等の意がありますが、
もう少し深く入って「悟る」と解釈しました。
※惰容(ダヨウ)とは、1)なまけたようす。2)だらしない行儀をいう。
以前№68に腹について述べましたが通り、
佐藤通次先生の腹、丹田のお話、引続き哲学と身行についての高説、
誠に有難く私は感銘を受けましたので一応ここまで拝写させて頂きました。
先生の「日本の武道」46頁‐49頁(最終頁)です。
以下又私が思っております、いろいろなこと申し上げる時、
その内容が先生のお延べになっている項目にふれました時は、相前後になるかも知れませんが
先ず筆頭に先生のお話を拝写させて頂きたく御了承願います。この項終わり。
○昔から日本人は人間の体の部分的な名前を日常生活の言葉に使って重に精神的な話題にした。
例えば人体の頭の上から下へ順にあげてみると、毛頭ない。毛並みがよい。
間髪を入れず。頭が低い(高い)。頭角を表わす。頭にきた。眉つばもの。眼をつける。
眼がきく。眼をぬすむ。眼にとまる。眼をかける。鼻が高い。鼻にかける。鼻につく。
鼻であしらう。鼻をおる。口が悪い。口がうまい。口が軽い(重い)。いい口さがす。
口八丁手八丁。舌を巻く。舌先三寸。喉から手が出る。喉元通れば熱さ忘れる。顔役。
顔がきく。顔が売れる。顔にかかわる。顔に泥をぬる。顔から火が出る。顔を貸す。
顔をつぶす。面を斬った。面子にかかわる。顔を出す。人を顎で使う。胸を打つ。
胸に納める。胸にいちもつ。胸が裂ける思い。胸さわぎする。胸にえがく。胸にたたむ。
続く