【清水館長「瓦の普及は中国からの仏教伝来と連動」】
国内有数の古代瓦の収集・研究拠点、帝塚山大学付属博物館(奈良市)で「朝鮮瓦の歴史」展(21日まで)が開かれている。今春開いた「中国瓦の歴史」に続く「瓦の来た道シリーズ」の第2弾。30日にはこれに合わせて公開講座「古代朝鮮の造瓦と仏教」が開かれた。講師の清水昭博館長(帝塚山大学考古学研究所所長)は「古代朝鮮での造瓦技術の導入と普及は中国からの仏教の伝来・受容と連動していた」などと話した。
朝鮮半島で瓦が最初に使われたのは中国・前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして漢四郡を設置した時期(紀元前108年頃)。その後、高句麗・百済・新羅が覇権を競った三国時代になって本格的に瓦が普及していく。高句麗、百済は4世紀、新羅はやや遅れて5世紀に入って瓦造りが始まった。
瓦のデザインは仏教の象徴である蓮華文を基調としながら、各国が個性的な瓦を生み出した。上の写真㊧は高句麗の蓮蕾文軒丸瓦。赤褐色の色合いは都が平壌にあった時期(427~668年)の特徴という。写真㊥は百済の瓦で、花弁の先端が隆起しているのが特徴。日本には588年、百済から4人の瓦博士が来日して製作技術を伝えたが、日本最古の本格的寺院・飛鳥寺にもほぼ同じような文様の軒丸瓦が使われた。
新羅に造瓦技術が入ってきたのは6世紀前半で、6世紀半ばにかけて百済と中国・南朝(梁)、高句麗の3つの系統の文様が登場した。上の写真㊨の蓮華文軒丸瓦は花弁中央の線が突出しているのが特徴。こうした文様は中国・南朝の瓦に多く、その影響を受けて作られたとみられる。527年に創建された新羅最初の本格的な仏教寺院・興輪寺跡からも同様のデザインの瓦が出土している。
その後、新羅は百済、高句麗を滅ぼし、676年に朝鮮半島を統一する。統一新羅時代には三国時代のシンプルな文様とは異なり、上の写真㊧のように花文を二重に巡らせる重弁形式など精緻で華麗な瓦が造られた。この時代になると軒平瓦の使用も一般的になり、唐草や麒麟、龍など多様な文様が使われた。高麗時代に入ると、初期には高句麗的な文様の瓦(写真㊥)が造られるが、後期には中国・元の影響を受けて梵字文が流行した(写真㊨)。
1392年に高麗を滅ぼして建国された朝鮮は現在のソウルに都を置き1910年まで続く。当時の瓦は今もソウルにある景福宮や昌慶宮などの宮殿建築に見ることができる。朝鮮時代の瓦は機能性を重視した分、美観性は弱まる傾向にあるという。同博物館では「瓦の来た道シリーズ」の第3弾として「日本瓦の歴史」展の開催も計画している。