【西山要一教授「文化財保存科学はここから始まった」】
奈良市のならまちセンターで7日「岡倉天心の法隆寺金堂壁画保存建議書―日本の文化財保存科学ここに始まる」と題した講演会があった。7~8日の2日間にわたって「法隆寺」をテーマに開催中の連続講座「奈良大学世界遺産講座」の1コマ。講師の文学部文化財学科の西山要一教授は「日本の文化財保存科学は法隆寺金堂の壁画保存方法の研究から始まった。それを後押ししたのが100年前の1913年(大正2年)、岡倉天心(写真㊨)の提案を受けて古社寺保存会が文部省に上申した建議書だった」などと話した。
天心は建議書の中で、金堂壁画を「世界ニ知ラレタル東洋各国壁画中最モ優秀……之ヲ永遠ニ保存スベキ方法ヲ講究スルハ極メテ必要ナルコト」とし、そのために「各方面ノ智識ヲ集メタル委員ヲ設ケテ」国の費用で十分研究するよう訴えた。保存科学は様々な分野にまたがる学際的な学問。西山教授はこの建議書の内容、とりわけ「多方面の智識」を「極めて先進的だった」と評価する。
この建議書上申を遡ること40年余。江戸から明治に変わる直前の1868年(慶応3年)春、神仏判然令(神仏分離令)が出された。これをきっかけに全国で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。経済基盤を失った多くの寺院は仏像や書画を売り払い廃墟と化した。法隆寺も伽藍が荒廃、仏像の盗難も相次いで存亡の淵に。宝物を皇室に献納し、その恩賜として1万円が下賜されたこともあった。135年前の1878年のこと。その1万円、今なら、いくらぐらいになるのだろうか。
1880年代、天心は師のフェノロサらと共に度々、宝物などの調査に訪れた。「近年其ノ頽廃日ニ甚シク若シ今日ニ及ンデ適当ノ措置ヲ為サズンバ此ノ貴重ナル国宝モ竟(つい)ニ絶滅ニ帰スルノ患アリ」。建議書上申の背景には天心らのこうした危機感があった。国は建議から3年後、建築・美術・考古・科学・生物など多様な分野に及ぶ保存方法調査委員会を設置した。「現代の保存科学・文化財科学の〝祖形〟がここにある」。
保存調査は壁画の写真撮影から顔料の科学分析、金堂内の温度・湿度の変化、壁面のカビの調査など多岐にわたった。これらを踏まえ、石膏や埋針、天然樹脂などを使った壁画の補修試験などが繰り返された。同時に壁画の模写作業も続けられた。補修や解体、模写は気温・湿度の変化の少ない春と秋に限られていたが、戦後になると模写作業は季節を問わず行われるようになった。
そして1949年1月26日早朝。覆い屋内の金堂から出火し、壁画も炎に包まれ類損してしまう。金堂の炎上で壁画も全てを失ったかと思えた。だが、色を失い損傷したものの、モノクロ写真フィルムのような姿で残っていた。「天心の提案による保存方法調査による学際的研究の成果と、新たな保存科学の研究成果を生かして、焼損壁画は今に伝えられている」。
西山教授は講演の最後をフェノロサの歴史的講演「奈良の諸君に告ぐ」で締めくくった。宝物調査のため奈良を訪れた1888年6月5日、浄教寺(上三条町)で行われた。フェノロサは岡倉天心の通訳で奈良市民にこう訴えた。「奈良の古物はひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、日本の宝、いや世界の貴重な宝なのであります。その保護・保存は奈良の皆さんが尽くすべき義務であり、その義務は皆さんの栄誉でもあります」。