【吉備の弥生文化、初期ヤマト王権に受け継がれた?!】
弥生時代、肥沃な土壌と水に恵まれた古代吉備地方(岡山~広島東部)は稲作や製塩、製鉄などの農工業が極めて盛んだった。大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で開催中の特別展「吉備と邪馬台国―霊威の継承」(23日まで)は、出土した土器や祭祀遺物などを通じて、吉備と河内・大和の強い結び付き、初期ヤマト王権に与えた影響などを掘り起こす。
会場は5つのコーナーで構成されている。「吉備弥生文化の成立と発展」「吉備のマツリと呪的世界」など第1~4章では岡山県内の遺跡から出土した特徴的な土器類を中心に展示。最後の第5章「吉備と邪馬台国」では奈良の纏向遺跡や箸墓古墳、唐古・鍵遺跡、大阪の久宝寺遺跡などの出土品を展示している。
吉備では銅鐸や武器形青銅器の出土が少ない半面、分銅形土製品や絵画土器、龍形土製品など独特な祭祀遺物が多いのが特徴。河内・大和の遺跡からも吉備系の甕(かめ)や分銅形土製品が出土しており、両地域の強い結び付きを示す。また不思議な弧帯文(こたいもん)や撥形文(ばちがたもん)も特徴の1つだが、こうした文様の壷なども奈良の唐古・鍵遺跡などから見つかっている。(上の写真左から彩文土器(台付細頸壷)=岡山市・百間川原尾島遺跡、分銅形土製品=岡山市・加茂政所遺跡、龍形土製品=倉敷市矢部出土)
弥生時代後期、岡山平野西部の足守川流域で巨大な楯築(たてつき)墳丘墓が築かれた。そこで行われた墓上祭祀には高さが1mを超える特殊器台が使われた。こうした巨大な器台は吉備地域で集中的に出土しており、筒部には孤帯文が描かれたものが多い。その巨大さと壮麗な装飾で葬送の場の威儀を整える目的があったのではないかとみられている。(下の写真の特殊器台の出土場所=左から倉敷市・楯築墳丘墓、新見市・西江遺跡、倉敷市・矢部堀越遺跡、奈良県橿原市葛本弁天塚古墳)
吉備で創り出された特殊器台は卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳をはじめ古墳時代初期の前方後円墳にも導入された。ただ古墳時代の円筒埴輪には吉備で特徴的だった弧帯文が描かれていない。「それは古墳時代以降、ヤマト王権の発展の影で徐々に存在感を失っていく吉備の姿と重なるように思える」という。このヤマト政権が邪馬台国を母体に生まれたかどうかは別にして、吉備の弥生文化が古墳時代初頭の大和に大きな影響を与えたのは間違いないようだ。