【黄文雄著、徳間書店発行】
著者は1938年台湾生まれ。64年に来日し早稲田大学卒業、明治大学大学院修士課程修了。著書に「中国の没落」「日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか」「世界から絶賛される日本人」など。〝台湾独立派〟を自任する黄氏は戒厳令が敷かれた台湾に長年帰国できず、90年代初めに29年ぶりに帰国を許されたという。
その台湾生まれの著者が今回、日本の〝特攻〟をテーマに選んだのはなぜ? 著者は死をもって国に殉じた特攻隊員の精神を「数百年にわたり西欧列強の植民地として屈従していたアジア各国の民族意識を高め、終戦後にアジア各国が独立する道を切り拓いた」と評価する。なのに当の日本では「戦前の日本をすべて否定する自虐史観が猖獗(しょうけつ)を極めてきた」(いずれも「はじめに」から)。そんな忸怩たる思いが執筆に駆り立てたようだ。
4章構成。第1章「世界から尊敬される特攻隊」では特攻の歴史を振り返りながら戦後の内外の評価を紹介する。特攻は日本軍が劣勢に立たされていた1944年10月のフィリピン・レイテ沖海戦が始まり。敷島・大和・朝日・山桜の4隊から成る神風特攻隊が編成された。各隊の名称は本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」から取られた。
以来、飛行機による特攻のほか潜水艇や人間魚雷による水中特攻、戦車による陸上特攻などが終戦まで敢行され、多くの若者が国のために散っていった。特攻による戦死者は一説に海軍、陸軍合わせて5800人余。一方、特攻によって撃破・撃沈した連合軍の艦艇は278隻(322隻説も)で、米軍の死者は1万2000人以上に及んだという。
日本が降伏文書に調印した米戦艦ミズーリ号も終戦4カ月前、喜界島沖で特攻によって艦尾に突入された。だが特攻機の爆弾が炸裂せず一部火災だけで済んだ。艦長は甲板に焼け焦げて横たわるゼロ戦操縦士を水葬に付すことを指示する。海兵の間に不満の声が沸き起こるや、艦長は「このパイロットも諸君と同じく国のために命を投げ出して戦ったのだ。敵兵も死んだら敵ではない」と艦内放送で呼び掛けた。特攻隊員は翌日、弔砲と全員敬礼の中で手厚く水葬に付された。
第2章「特攻隊の真実」では隊員の遺書や辞世の句、特攻隊の創設を提案した大西瀧治郎中将の苦悩、「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメさん、最後の特攻などを紹介する。最後の特攻は1945年8月19日。日本の降伏後、満州に進駐してきたソ連の戦車隊に特攻11機が体当たり攻撃を行った。そのうち2機には女性(隊員の妻と旅館の女中)が同乗していた。『妻と飛んだ特攻兵』の著者豊田正義氏は「残されて辱めを受けるくらいなら、敵軍に特攻して果てたいという彼女たちの切実な訴えが、隊員たちの心を動かしたのだろう」と記す。
第3章「それでも日本人は特攻を選んだ」では、生きて帰れない〝十死零生〟の特攻には「日本人の死生観、武士道などの伝統が大きくかかわっている」と分析。第4章「アジアを解放した特攻精神」では戦後〝共生同死〟を誓ってインドネシア独立運動に参加した数千人の日本兵、インドやビルマの反英独立運動を支援した日本軍などを紹介する。
著者は「おわりに」をこう結んでいる。「戦後の『人命至上主義』から特攻を『犬死』『馬鹿げた行為』と批判することはたやすい。だがそれは、命を捨てて国のために戦った戦士を貶める行為であるばかりではなく、大和魂や武士道までも否定し、ひいては日本人の否定にもつながる愚かな行為なのである」