く~にゃん雑記帳

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<平城宮いざない館> 特別展「のこった奇跡 のこした軌跡」

2022年11月08日 | 考古・歴史

【第1次から近年の621次発掘調査までを振り返って】

 平城宮跡歴史公園(奈良市)の平城宮いざない館で、特別展「のこった奇跡 のこした軌跡」が開かれている(12月11日まで)。発掘・保存活動に取り組んできた奈良文化財研究所の70周年と平城宮跡史跡指定100周年を記念した催し。平城宮の発掘調査は奈文研発足3年後の1955年から本格的に始まった。特別展ではこれまであまり紹介されていなかったその第1次調査や、昭和の初めから断続的に調査が続く「東大溝」の最新の第621次調査の成果などを出土品やパネルで紹介している。

 第1次の調査地区は第二次大極殿の東南隅で、古墳時代の蓋形(きぬがさがた)埴輪や奈良時代の須恵器、土師器などの食器類、「修」や「理」の文字が刻まれた軒丸瓦などが出土した(写真)。刻印瓦は平城宮内の建物などの修理を担当した役所「修理司」に関わるものとみられる。1960年代前半には宮跡の一部で鉄道操車場の建設計画や国道バイパス事業が浮上。それらに伴う発掘調査で注目すべき大発見があり、全国的な宮跡保存運動が巻き起こった。

 

 平城宮跡西南の調査では宮を囲む築地大垣を初めて確認、同時に井戸が5基も見つかった。井戸枠の板は1枚が幅0.5m、長さ1.5mで、いずれも逆S字形の双頭渦巻き文が描かれていた(写真㊨出土品、㊧復元品)。それらのサイズやデザインは平安中期に編纂された『延喜式』の「隼人(はやと)の楯」に関する記述とほぼ一致する。楯は南九州出身者によって平城宮の警備や儀式に用いられていたものとみられ、それが井戸枠に転用されていたわけだ。この隼人の楯は奈文研のシンボルマークにもなっている。バイパス事業に伴う発掘では平城宮の東張り出し部(東院)の発見につながった。

 1963年の天皇の住まいがあった内裏北側のゴミ捨て穴(SK820)からは約1800点の木簡(2018年に国宝指定)とともに多くの土器や木製品が見つかった。その中には「鳥食入器」や「鸚鵡(おうむ)鳥坏」などと書かれた墨書土器があった(上の写真)。内裏で飼われていた鳥たちの餌入れとして使われていたようだ。平城宮跡からはこれまでに鬼瓦が608点も出土している。展示中の鬼瓦のそばに「一遺跡の出土数としては全国でも断トツ。平城宮跡は日本の鬼瓦の聖地ともいえるのだ」という解説が添えられていた。

 東大溝(SD2700)は宮跡東側を南北に貫くもので、最初に見つかったのは1927年。以来断続的に調査が続けられてきた。最新の第621次調査(2020~21年度)でも大量の土器が出土し、築地塀の下側で東大溝に雨水を流すための木樋と石組みの暗渠も見つかった。特別展では新たに出土した土器類を展示するとともに、木簡など木製品の水洗作業の様子などをビデオで放映している。(ちなみに東大溝のアルファベットSDは「溝」を表す。SAは塀、SBは建物、SEは井戸、SKは廃棄土坑のこと)

【地下の正倉院展~木簡に「親王」「奈良京」「倭歌」】

 平城宮跡資料館で開催中の「地下の正倉院展―平城木簡年代記」は後期展示期間(~11月13日)に入った。新たに展示中の木簡は国宝4点を含む28点。その中には長屋王を「親王」と記したアワビの荷札や、遷都当初の平城京が「奈良京」(読みはおそらく「ならのみやこ」)と呼ばれていたことを示す木簡、万葉仮名で「倭歌壱首……」と和歌が記された木簡(写真)なども。不要になった文書箱の蓋を利用して、油の使用量と用途を記録した木簡も展示されている。

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