お疲れ様です。
皆さまお元気ですか?
今日も本です。
「ネルケ無方」さんの
「日本人に宗教は要らない」です。
ネルケ無方さん、皆さまご存知ですか?
なんと、ドイツ人の住職。
兵庫県の美方郡にある曹洞宗のお寺の
9代目の住職なんです。
そして、そこは自給自足で生活し坐禅を組む
修行の場なんだそうです。
さらに、その前には出家して
ホームレス雲水だった時代もあるそうです。
多彩な経験の持ち主ですね。
そんな、「ネルケ無方」さん、
私達日本人と少し違った視点で
日本人の宗教について語ります。
日頃私達が当たり前だと思っていること
それが、素晴らしいことだったり
疑問なことだったり、
あらためて語られると
考えさせられる部分、多々ありました。
考えさせられる部分、多々ありました。
よく言われることですが、
お正月には神社に初詣に行き、
お盆は御墓参り、
結婚ではキリスト教の神父さんが登場
亡くなったときは、
お葬式でお経があげられる…
どんな神さまでも、分け隔てなく
信仰しているって感じでしょうか?
そんなふうに言うと聞こえがいいですが
外国の方に言わすと、
節操がないというか、
とても信じられない事なんだろうなあ
と、想像してしまいます。
日本には、森羅万象に八百万の神が宿る
そんな信仰があります。
と考えれば、
いろんな宗教や考えがあっても
その中の神様のひとつと思えば
その中の神様のひとつと思えば
さほど気にならないのでしょうか?
そんなふうに思います。
そんなふうに思います。
なんて、日本人に都合が良いように
書きましたが、
こんなエピソードもあります。
なんと、あの有名な「マザーテレサが来日」した
際のコメントです。
「日本は物質的に本当に豊な国です。
しかし、町を歩いて気がついたのは、
日本人の多くは、弱い人や貧しい人に
無関心だということです。」
なかなか厳しい言葉です。
実際にそのように目に映ったとしたら
そうなのかもしれません。
ですが、ネルケさんは、
そんな日本人に対して
このように言ってくれました。
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私の見ている日本は、そのような国ではありません。
確かに、日本人は欧米人のように、自己PRとしての、
ボランティア活動をあまりしません。
キリスト教のキャッチフレーズである「隣人愛」も、
日本ではどこか大げさな響きを持つようになっています。
日本人は「善意」と「偽善」の違いには
鋭いアンテナを持っているのです。
だから、日本人が「精神的に貧しい」とは決して言えない、
と私はおもいます。
いや、信仰心を盾にしながら戦ってる欧米人よりも、
はるかに豊な精神性を持っているのが
日本人ではないでしょうか。
宗教で喧嘩をしない、
善意の押し売りをしない日本人こそ、
私は好きです。日本人のそういう精神性は、
ひょっとしたら、
控えめな仏教の「慈悲の心」の影響が
あったからこそ育ったのかもしれません。
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なんて、うれしいコメントでしょう。
そして、ひょっとすると、宗教で喧嘩しない
このフレーズは世界の多くの人に対して
メッセージすべきことではないか?
そんなふうに感じました。
さらに、タイトル「日本人に宗教は要らない」
についてでしょうか。
このように語ってくれました。
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日本人の日常会話はとれも宗教心にあふれている。
「ありがとう」「すみません」「いただきます」
「ごちそうさま」「もったいない」「お互いさま」など、
通常の生活の中に宗教的な言葉をたくさん見つける
ことができる。
その中でも、「お陰さま」。
この言葉には、何か大きなものに見守られている安心感、
生かされていることの感謝の気持ちなど、
多様な意味を含んでいるように思う。
それはご先祖様のお陰でもあるし、
神様や自然のお陰でもある。
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これも、言われてみると
なるほど、これらの言葉が発せられたときの気持ち
それを想像してみると
私たちが生きる上で、大切なものであるということを
実感させられました。
私たちが生きる上で、大切なものであるということを
実感させられました。
まだまだ、たくさんのことが語られています。
せっかくなので
もうひとつ、「ネルケ無方」さんは
曹洞宗の住職なので、坐禅についてのことも少し
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◆「ただ坐る」が意味するもの
道元禅師が目指した「只管打坐」であるが、
「そもそも、なぜ坐禅をするのか」
と疑問を持つ人もいるだろう。
坐禅とは何か。
これに対する答えを、なるべく簡潔に説明してみよう。
普段、我々は何をしているのか。
何かをしているようで、実は何かに使われているのではないか。
将来何かになるために勉強する。
いい大学に入るために勉強する。
しかしそれは、「いい大学に入らなければならない」
という思いに使われて勉強しているに過ぎない。
なぜいい大学に入らなければいけないのか。
それは、いい会社に勤めたいからである。
なぜ、いい会社に勤めたいのか。
それは、いい給料をもらいたいからである。
なぜ、いい給料をもらいたいのか?
それは、いい生活をしたいからである。
なぜ、いい生活をしたいのか。それは・・・・
生きている限り、欲望は続いていく。
それは、ハムスターの回し車のようだ。
その中で一生懸命走っても、
何のために走っているのかわからない、
結局、我々は何かをしているようで、
いつも何かに使われているいるのだ。
坐禅は「ただ座る」だけである。
しかし、そのその時間は何にも使われていない。
なんのためにもならないからこそ、
初めて自分の時間となるのだ。
・・・
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まだまだ続きますが
最初のほうを少し。
なかなか難しい話ですね。
たしかアニメのクレヨンしんちゃんが言ってたような
気がします。
まさに「習うより慣れろ」
体験することで、理解していくものかもしれません。
さらに、もうひとつ、
こんな問題について取り上げています。
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★第2の「オーム真理教」を生み出してはいけない
1980年から1990年に起こした一連の事件は、
日本の仏教界に衝撃を与えた。
オーム真理教のようなカルト教団に優秀な若い人が
流れたことはとても残念である。
そして、それは彼らの受け皿が日本仏教になかった
ということにほかならない。
もし、彼らがどこかの仏門を叩いて、
そこでまっとうな仏教を教えてくれる
師匠と出会っていれば・・・。
現在でも、生き方に悩む若者たちが様々な
新興宗教に入信している。
「如何に生きるべきか」
という問いを若者がもっていても、
既存のお寺へ行きにくいのが日本の現状である。
曹洞宗もそういった人たちを
受け入れる土壌があるとは、決して言えない。
・・・
日本人の多くは、
仏教に関しての基礎知識があまりない。
日常生活の中で禅の教えを実践し、
宗教心をもって暮らしているのが日本人であるが、
その日常から抜け落ちたときが危ないのではないか。
日常から抜け落ちた人たちと苦悩をともにする。
日本の仏教界がその役割を担うために
動き出すときではないだろうか。
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確かに、オーム事件で象徴されるかもしれません。
多くの社会問題の裏にある
「如何に生きるべきか」というテーマ
そして、心のよりどころとなるもの
が今の時代、見えにくくなっているようにも感じます。
ということで、
ながなかとお付き合い頂きまして
ありがとうございます。
今日はドイツから来た曹洞宗の住職
「ネルケ無方」さんの
「日本人に宗教は要らない」でした。