私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

強大なる高句麗の勢力に対して

2016-11-01 07:20:42 | 日記

 倭王「武」は無法な高句麗に対してどのように対処したか、又、窮地に追い込まれたのか、それを上表文に詳しく書いておりますので簡単に説明させていただきます。

               “臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、・・・・・・・・”

 「亡考」とは亡くなった父「済」、即ち、衣通姫の父親「允恭天皇」は、寇讐<コウシュウ>(高句麗)が、天子様に謁見するために通る道筋(天路)を壅塞<ヨウソク>塞いでしまっていたのを忿って。

 と。
 ここにある「壅塞天路」の時は「日韓古史断」の中「高句麗王璉」の時代です。kの高句麗王が、しきりに、朝鮮半島の百済新羅等の国々を攻撃してくるので、それを援助しようと倭国でも、百万もの兵を整えて、高句麗を征伐に出かけようとしたのですが、その時、奄<ニワカ>に父と兄が亡くなり、喪中に服さなくてはならなかったために、目の前にあった戦功は、として次のような言葉で、それを説明しています。

              “使垂成之功不獲一簣<スイセイの コウをして イッキに エざらしむ>”

 「垂成之功」と云う言葉は広辞苑にも出ていませんが、読んで字の如くで、「そこらあたりに垂れ下がっている功績」で、それが「一簣、一モッコに担ぎ取ることができなかった」と云うのです。何と難しい言葉を遣っていることでしょうか。中国人がその話を聞いて、文字にしたのだろうとは思うのですが???