ここに来て、又、ちょっと気になった事に出くわします。と云うのは、宋書には、倭王「武」が宋王に「開府儀同三司」の位を授けるように依頼したとあるのですが、この「儀同三司」と云う言葉、どこかで聞いたことがあるように思えてなりません。昨夜床について、ふと「そうだ百人一首」の中にある
“忘れじの 行く末までは かたけれど けふをかぎりの 命ともがな”
の作者が「儀同三司母」ではなかったかと思われました。早速、この「開府儀同三司」について、広辞苑を紐解きました。それによると、これは漢の時代の制度で、その地方を治める将軍をそう呼んだと出ています。それが、日本では、この三司を「太政大臣・左右大臣」にあてて、その位と同等の位として「儀同三司」が作られたそうです。(なお、此の位の下にあるのが「大納言」です。あの藤原成親卿の位です。)
当時、此の位を授かっていたのが藤原伊周<コレチカ>で、その母が作ったのがこの“忘れじの行く末までは・・・”の歌なのです。
今までは、私はそんな意味が「儀同三司」にあるのか、何も知らないで使っていたのですが、この宋書を読んで始めて知りました。読書とは本当におもしろい事ですね。
この宋書にあるように、漢の時代の位について、「武」が、既に、知っていたのです。これは彼一人の知識では決してないと思われます。当時の倭国の為政者の中にも、480年頃ですが、世界情勢に明るい相当な物知りな人物がいたのだろうと考えられます。倭国は、高句麗の東南、大海の中にあったのですが、相当なグローバルな社会の中に位置していたのだと言うことが分かります。それらは、中国や朝鮮半島の国内の混乱に伴う多数の移住者によって持たされたものでしょうが、それらの人を先進者として、また、博士として、大いに利用した為に得られた知識ではなかったかと思われます。遣隋使や遣唐使によって日本文化の元が作られたとするのが一般的ですが、それをさかのぼる事、百年も二百年も以前からその傾向は見られていたのだと思われます。元々あった古来からの独特な風土が生み出した固有な文化があった上に、更に、中国などから、より進んだ文化が入り込み、それらが複雑に絡み合い融合して、今見られるような日本独特の我が国の文化を作り上げられたのだと思われます。その大元がこの時代に生まれていたのです。