それまで、倭と新羅とはお互いに幾度も百済や高句麗と係り合って戦いを交えていたのですが、両者の間には何らかの交流は有り、貢物もしていたのです。それが、雄略天皇になってからの新羅との関連は八年間も途絶えていたのです(日本書紀)。梨のつぶてて、何の音沙汰もありません。どうしてそのような関係になったかという原因についてはこの書紀には何も書いてありません。
どうしてでしょうか?????その理由が知りたくありません。何処かにその理由がと思って、「日韓古史断」を、またまた、開けてみました。すると、そこに、
”甲午歳、本朝帝崩す。新羅王之を聞き悲駭し、貢使素服京に入り哀を挙ぐ”
と書いて有ります。本朝帝とは雄略の父「允恭天皇」です。要するに倭国王「允恭」が死んだので新羅王は悲しんで哀悼の意を表すために使者<素服>を倭に派遣したというのですから、倭国・新羅国二国が仲たがいするなんてことは考えれません。しかし、次にまた、
“時に或は訛伝す。貢使采女に奸せりと。大泊瀬皇子悉く使者を執へ、状を得て初めて之を宥す”
と書かれてあります。
どうでしょうか???「訛伝」とは<誤って伝わる事>です。弔問に来ていたその使者が、「采女」は天皇の食事のお世話をする女官です。其の女性を強姦したと云う噂が誤って天皇の伝わります。そこで、「大泊瀬皇子」後の雄略天皇ですが、早速、その使者を詰問し調べたのですが、結果は、事実無根であることが分かり、
“初めて之を宥<ユルス>す”
さて、これで一件落着な筈ですが、まだまだそんなにいっぺに解決される様な事件ではありません。其の当時の東アジアの情勢と絡み合いながら大変興味の湧く事件へと展開されるのです。トランプ氏より面白いかも???
今まで、誰も此の事件について報告した人はいないと思いますので、私がそのお話をしてみたいと思います、ちょっとしたストーリーになりそうな話ですが、長くなりますので、例により、続きはまた明日から数回に分けて書いてみますので、
乞う。ご期待を!!!!!