倭王「武」(雄略天皇)についての宋書「倭国伝」も最後となりました。武も、又、宋王に上表し、「開府儀同三司」の位を授けるよう、次のように、上表しております。
「私が父や兄の死のため喪に服している間にも、高句麗王「璉」は周辺諸国の百済、新羅等の国々を略奪したり、人々を殺戮したりしております。喪が明けた今、武器を整え兵を訓練して、高句麗を懲らしめたいと思います。どうかそのためにも、私に「開府儀同三司」の位を授けて下さい。兵士たちも、皆、勲功を立てるべく勇み立っております」
と。
前の倭王「讃・珍・済・興」の4王とは違って、「武」は、何故、このような位を授けてほしいのか、その理由までをちゃんと書き添えておるのです。普通、学校で教えられる、我が国への漢字が伝わったとするのは6世紀の中ごろだとされていますが、この宋書を見ると、当時5世紀の初め頃には、既に、漢字が我が国に伝わっており、それを使った上表文であろうと思われます。稲荷山の鉄剣にある
“獲加多支鹵大王<ワカタケルダイオウ>”
と云う字などからも、当時(480年頃)、既に、日本には漢字が伝わっていたことが想像できます。