「雄略天皇は吉備臣田狭の妻の稚媛が大変な美人だと言うことを聞いて、どうにかして、その稚媛人を自分のものにしようと計画します。その為に、先ず、田狭を朝鮮の任那の国司と派遣します。」
と、日本書紀には書かれています(雄略天皇の七年)。しかし先に見た
“安康帝の時、吉備田狭任那国司に任ぜられ、事を以て雄略帝を怨み、遂に任那に拠り新羅に通じ、本国の道を塞ぎて叛く”
と書かれております。安康と雄略は兄弟ですが、その記事の違いはどこから生まれたのでしょうか。此の中に“怨み”と云う文字が見えるので、田狭は任那国司になったのは安康の時で、稚媛を妃にしたのは、書紀にあるように、雄略が田狭の自慢話を直接聞いた事によるのでなく、以前から美人だと言う噂が立っていたのを聞いた雄略に、安康の死後、ねとられたのを知って田狭が怨んだのではないでしょうか????
450年頃の東アジアの情勢は多くの国が混じり合い、戦いを繰り返しながら覇権を争ったと言う事だると思われます。それが「稚媛」と云う一人の女性を中心とした話に作りあげてたのではないかと思われます。