私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

神功皇后とは???

2016-11-22 09:11:29 | 日記

 もうこれで、神功皇后の「三韓征伐」については終わりにしようと思ったのですが、また、例の何でも博士(筆敬さん)から、

 「おめえが けえとる 三韓征伐にゃあなあ、まだまだ そげえなこたあねえよなあと おもえるようなもんが いっぺえあるんじゃど。そりょを かかにゃあ おえりゃあ せめえが。」

 と、お叱りを被りました。「そげえなこたあねえようなもん」というのは何だろうかと、再度、書紀を開いてみました。すると、此の仲哀天皇・神功皇后の時代も、やはりまだ、その政<マツリゴト>の中心は天皇の「修祓」による神託(神のお告げ)による統治だったと言うことがよく分かります。(「鬼道をよくし、衆を惑わす」の卑弥呼の政治も)。そんな神功皇后の受けた神託の一部を紹介しろと、私の「何でも博士」は言われるのです。

  記紀によると、この神功皇后の「政」は、仲哀天皇の天罰による死後、まだ、新しい天皇は皇后の腹の中です。だから、日本の国の「政」は天皇に代わって「神功皇后」(摂政)が行ったのです。それ故、神功皇后を、「日本書紀」では「15代」の天皇にしています。しかし、どうしたことか、古事記では、神功皇后は国王(天皇)ではなく、「仲哀天皇」の次の天皇は「応神天皇」としてあります。

 この時、神功皇后の「政」を補佐したのが、例の「武内宿禰」です。女王が神託を受け、それを実行に移したのが女王を補助した男性。そんな人物の組み合わせ構造が「魏誌倭人伝」にある「卑弥呼とその弟君」とよく似ておりますので、箸墓の女王「ヤマトトモモソヒメ」ではなく、「神功皇后」が、即ち、「卑弥呼」であるという仮説を立てる学者もいるようです。まあ、時代も「神功皇后」は250年頃の人だと言われておりますので、魏誌倭人伝が書かれた時が239年ですから、時間的に言うとこの「神功皇后」が「卑弥呼」だと言う方が正しいのかも分かりません???????            

             少々長くなりましたので、神功皇后が受けた神託とはどのようなものだったかは、明日にでも。