雷で大岩を炸裂させて「裂田溝<サクダノウナデ>」が出来あがり、愈々、神田での新穀もでき、新羅を討つ準備にとりかかります。
そのためには、先ず、兵力の増強が必要です。筑紫の国だけではそれを補うことはできません、当然、当時の強国「吉備国」へもその要請がきます。その時、吉備の国からは二万人の兵力が集められたと言い伝えが残っております。孝霊天皇の皇子「若日子建吉備津彦」がその祖であると伝えられている「下道郡」辺りから集められたのです。この話が、本当かどうかは疑わしいのですが、「吉備国」は、当時、それだけの大和と肩を並べるだけの強大なる勢力を保持しており、此の国を除外しての朝鮮征伐など、海外派兵など、とても考えられない一大国家行事だったのです。
その言い伝えとして、現在、倉敷市真備町箭田辺りから兵隊が集められたのでしょうか、その時の名残りとして『二万<ニマ>』という地名が残っております。この頃は、まだ、吉備と大和は蜜月の関係が保たれていた時代だったのでしょうが、その後、百五十年後ぐらい経過して、天皇で言いますとこの神功皇后の後、「応神」-「仁徳」ー「履中」-「反正」-「允恭」-「安康」-「雄略」と続いて、この雄略の時代になってから、吉備国の勢力に衰えが、天皇中心の中央集権の時代の中に溶け込んでしまい「吉備」という名が次第に歴史の中から消えて行ってしまったのです。この時には、まだ、造山古墳は作られてはません、念のために。
なお、これも蛇足になるのですがこの神功皇后は「古事記」では天皇ではありませんが、日本書紀では、れっきとした、第十五代天皇に位置ずけられております。