神功皇后が肥前国「玉島里<タマシマノサト>」の小川で魚釣りをして、細かい鱗魚(アユ)を釣りあげられます。天にまします神のお許しが下りたので、早速、西の国(新羅)を討とうとされます。まず、この戦いの戦勝祈願のため、その土地の特別に選ばれた田で出来たお米を神祗に捧げなければなりません。その田が「神田」なのです。どのようにして、その神田を決めたのかは何も書紀には書かれておりませんが、古代社会の大変興味ある神事として、平安の時代に行われていた制度が記録としてありますが、それについて少々説明してみます
それは平安の世になってからのことです(奈良に都があった時もそうだったのかもしれませんが??)。新しく天皇になった場合にとり行われる、天にまします神々に自分が天皇になったと言う詔を高らかに宣する一大行事である「大嘗会<ダイジョウエ>」に引き継がれます。この時、神に捧げるお米を作る田を、特別に「主基<シュキ>」「悠紀<ユウキ>」と呼んでおります。山城国(京都)の西では「丹波国」と「備中国」の二国が「主基」として、東は「近江」が「悠紀」として選ばれて、大嘗会に捧げられる「神米」が作られております。(毎回その場所の選定に当たっては鹿の骨を焼いてできる線により場所を決めていると言われております)
その西国の「主基」として、度々、選ばれたのが、我が町「板倉」です。「主基」に選定されると、毎回、その地方を読みこんだ和歌や絵図が作られたのだそうです。
あの古今集にある
“真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ”
もそうです。仁明天皇の大嘗会が行われた天長十年の事でした。亦、新古今集の
“常盤なる 吉備の中山 おしなべて 千歳の松の 深き色かな”
も、村上天皇の天慶九年の大嘗会の時に作られた和歌です。その他、沢山の和歌が主基選定に伴い読まれた歌だとして、この地方に言い伝えられております。有木も鼓山も板倉橋も・・・・・。